書下ろし評伝 『同心円と放物線』

以下は、作曲家にして指揮者の山本直純氏の、夫人にして同じく作曲家の 岡本正美氏の生涯を綴った評伝です。
時代の寵児となった「直純」と、純音楽一筋の「正美」との愛と相克の全容でもあります。
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PDF版=A4横★評伝★「同心円と放物線」全文(最終版原本)

 

山本直純夫人――作曲家「岡本正美」へのオマージュ
時代の寵児となった「直純」と 純音楽一筋の「正美」との 愛と相克の全容を解き明かす!


同心円と放物線
                                                      松尾 學

■目次■

序――緋色のオーバーコート

Ⅰ――バックグラウンド
▼銀座の花形レストランの創業者を父に
▼銀行家・文学者一族、父は音楽家
▼正美の集団疎開と戦後
▼直純の集団疎開と戦後
▼山本家と著者

Ⅱ――芸大生の青春譚
▼ヤンチャと質実剛健
▼好きなように書かせる教授の下で
▼恋の痛み
▼棒振り三昧、大成功!

Ⅲ――蜜月の時
▼日本アルプス登攀で
▼お友達から恋人同士へ
▼「神田川」のごとく
▼同床同夢もつかの間?

Ⅳ――「時の人」正美
▼大衆化路線をひた走る
▼『ねむの木の子守歌』で世にはばたく
▼子たちとの密着『しつけ歌』
▼正美の“前衛”音楽

Ⅴ――「活火山」正美
▼家の内と外で
▼嫉妬と猜疑心と
▼「電話魔」正美

Ⅵ――女性作曲家とは
▼作曲における男女の差異
▼日本の女性作曲家の奮闘
▼その後の女性作曲家の光

Ⅶ――「作曲の家」と代表作品
▼ニューヨーク滞在と、作曲の家の建設
▼交響曲第一番の明暗
▼その後の交響曲作品
▼その他の主要作品
▼指揮者の感想と海外での評価
▼四十八歳にして大学院へ!

Ⅷ――童女となりて
▼肉親愛と信仰
▼同心円と放物線
▼愛のかたち

 

序――緋色のオーバーコート

その時、上野の森の一画、東京芸術大学の構内に一陣の風が吹いたか、どうか……吹いていたとしたら、身も縮む北風であったろう。春にはまだ遠い、昭和二十七(一九五二)年度の同大学入学試験の最中であったからだ。

ふだんとは違う緊張した構内の雰囲気のただ中に、ぽつりと十九歳の女が立っていた。創設以来、芸大音楽学部を象徴しつづけた旧・奏楽堂近くである。彼女もまた、この年、この大学の作曲科に応募した受験生の一人であった。
女にしてはそれなりの身長。髪はロングで艶もよく、もよく、身体は細身にもふっくらしているようにも見えた。印象的なのは、黒いはっきりとした瞳であった。深窓の令嬢という雰囲気と同時に、ややバタ臭い彼女ならではのフェルモンを発していた。遠目にも派手な緋色(のオーバーコートは、同時にその後の彼女の血流の濃さを示していたのかもしれない。
「コールユーブンゲンの試験会場はどこですか?」
息せき切って走ってきた男が、その女に問うた。女は少年が突進してきたのか、と思った。背は低く、身体は貧弱とさえ見え、まだ眼鏡を要しないその顔は、後に芸大内の女学生から「ハンペン」と渾名()されたごとく面長く、白く、のっぺりとしていた。
女はぶっきらぼうに、
「あっち――」
と、奏楽堂の方を指差した。

男にとっては必死の二度目の受験であった。前年度、彼は「一発合格!」と噂されていた身であったのだ。絶対音感があり、高校時代にすでにプロのオーケストラを指揮し、師事していた作曲家に代わってゴーストでオーケストラ曲さえ書いていたからだ。
だが、この絶対音感のもち主は、発声テスト、コールユーブンゲンで不合格となったのだ。なんと出した声が音程からまったくはずれ、試験官全員が床を転げんばかりの抱腹絶倒となったからだ。ハンペン顔は真っ赤に染まったに違いない。
「声変わりの時期だった」とは、後々のご本人の弁であるが、十八歳での声変わりとは、ずいぶんと遅い。幼少の頃より病弱であったのか?

男の名は、山本直純と発した)。この年ばかりは無事発生)をこなし、めでたく合格した。
奏楽堂を指し示した女の名は、岡本正美。五年後に男の妻となり、山本)正美となった。

二人の出逢いとなった奏楽堂近くの数秒ではっきり言えることは、正美は直純に一瞥)だになく……だが三年後、この奏楽堂で直純は指揮者としての最初の快挙をなし遂げる。
「ハンペン、やるじゃない……」
と、正美が胸キュンとなったか、否か――。

 

Ⅰ――バックグラウンド

例えば私たちが、終戦も間もない頃の児童であり、舞台は東京のとある住宅街であったとしよう。子供たちの眼に映じたのは、あたりあちこちに残る大空襲の残滓(、だが、自分らの格好の遊び場である広大な焼け野原だった。
そうした所でさんざんに遊び疲れて、家路につく。路地に入る。一帯はわびしい木造家屋ばかりだが、きまって鼻を突くのが台所から漏れてくる匂い。夕餉()の煮魚やみそ汁。とたんに腹ぺことなった子供たちの脚が速まる。路地を抜けて、また次の路地へ――。
と、そのとき、耳にそよぐのが、同じ年代の子が弾くピアノの音だったりする。脚が止まり、ふと見上げる。音を発する家は洋館風の立派な家であったりする。
弾き手の主はきまって上品で清潔な服装で教室に登場した。女子であればどうしてもお嬢様、男子であれば同様に坊々視されてしまう。昼の弁当からして、あきらかな差となる。隣の席の子がゴハンだけの上にタクワン二切れと梅干し一つ、しかも蓋で中身を隠すようにして口に運んでいるのに対して、ピアノのレッスンに励む子の中身は、豪華な卵焼きにエビフライ、さらにレタスに囲まれたその子以外誰もまだ口にしたことのないオレンジなどという果物――それらを何事もなきかのようにして口に運ぶ。

ピアノ一台買うのに家一軒!――と言われたのは、戦前もかなり前の話であったろうが、戦後とて、池田勇人首相が「所得倍増!」などと叫ぶあたりまでは、ピアノのある家は高嶺の花だったのだ。
とは言え、明治以降、西洋に追いつけ追い越せと、音楽教育の現場では洋楽が国の音楽教育の国是とされて今日へといたる。戦後間もない頃であっても「男の子がピアノを?」、「女の人が作曲を?」という衆目の中で、作曲家に限っても、明治期だけでも男性では滝廉太郎、女性では幸田延(作家・幸田露伴の妹)……など、優秀な人たちを輩出した。
しかしながら所詮芸術は河原乞食。その道で食う、生計を立てるとなると、教師となる以外、今日においても並たいていではない。

太平洋戦争は、無論、洋楽界にも不幸であった。この間洋楽は、日本国の戦意高揚に参戦させられ、本来の活動を断たれていたからである。
ともあれ、朝のこない夜はない。戦後ただちに清瀬保二早坂文雄伊福部昭らと新作曲派協会を結成(一九四六年)した作曲家兼ピアニストの松平頼則は、当時の『音楽芸術』誌上で、「東京はまだ一面の焼け野原だった。巷には闇市が立って薄汚い人間がうろうろしていた。ろくにたべるものがなかった。もちろん我々もその仲間だった。音楽ははるかかなたにあった。それは尊い清いもので、おそらくは我々の生涯を通じてその憧憬は青年の頃の芸術への憧憬と同質のものであった。そのような時に昔の仲間が集まった」(一九五三年四月号)と、記している。
つまり、クラシック音楽の実力者にしてからが、戦中に限らず、映画、テレビなどの媒体が発達した現代においても、職業として貫くことは容易なことではないのである。
それは、なぜか?

 ひとことで言えば、クラシック音楽は、深淵長大。まずもってお手軽さに欠ける。楽器一つとっても、()ね高額だ。ピアノもさることながら、例えば打楽器の花形であるティンパニは、プロ使用となると一式三百万円を下らないし、木管楽器の最低音部を受けもつバスーンは、ただそれ一本でも三百万円、中には五百万円クラスのもある。ヴァイオリンはまさしくピン・キリのチャンピオン。木製ゆえに、材質が良ければ二百年を経て最高の音質・音色になるとされるこの楽器は、かのストラディヴァリウス、ガウディあたりのクラスとなると、億単位となる。
 それだけではない。世界が認める演奏者となるためには、ヴァイオリンならば四、五歳から始めなければならず、ピアノでも十歳を越えたらまずムリ、というのが相場だ。以後、音大に入るまでにかかるレッスン費用は、並みの親の収入ではまかない切れない。
さらに言えば、クラシック音楽は伝統芸能であることだ。一代では達成しにくいところがある。誰かにきちんと“仕込まれ”なければならない。血縁であれば音楽環境的(耳的)に満たされているし、洗練もされている。仕込まれ的にも手っ取り早い。古くはヨハン・セバスティアン・バッハに代表されるバッハ一族。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、ザルツブルクの宮廷作曲家、ヴァイオリニストであったレオポルト・モーツァルトを父とし、傑出したチェンバロ奏者、ピアニストであったマリア・アンナを姉としている。
つまり、血縁であるか、師弟関係であるかを含めて、芸能や工芸、芸術は「継承」をベースとする。もっと言えば、クラシック音楽は、継承(伝承)という意味からすれば、芸術である以前に“芸能”であるということだ。
芸能であるためには、それにかなう技と質を備えもつ必要があり、それ相応の環境や土壌、素地と蓄積、それらの継承が糧となる。また、それ相応の「時間」、「手間ひま」を必要とする。一朝一夕では実とならない。
別に例えるとして、クラシック音楽は農業(百姓)と同じだと言ったら、奇異に聞こえるだろうか? そうではない。都市生活者がいきなり「土」に帰れ! と言われてもムリである。その土を前になす()を知らないからだ。野菜の種一つをどう植えて、育て、実となすか――の術さえ知らないからだ。つまり、そのための知恵と術の伝承を受けていない。「土とは、人間、動物、植物……など、ありとあらゆるものの死骸、それが新たな生命を生む」と、お百姓さんは言うであろう。百姓は、身のまわりの自然物から、蓑傘、茅葺屋根、竹細工、縄、米俵……など、生活に必要なものを作り出す“百の技術”をもつ((者)の別名でもあるのだ。一人でも、オーケストラ全員分。こちらもまた、一朝一夕ではムリである。
日本人にとってクラシックが単純でないのは、あるいはまだ心的に隔離があるとしたら、洋物(輸入物)であったからか? 装置が並みでないためか? というだけではないように思う。試みに、歌舞伎一門でない素人集団が、歌舞伎を本格的に演じられるだろうか? 観客は、求めるだけの享受が得られるだろうか。答えは、ノーであろう。

▼銀座の花形レストランの創業者を父に

 「十三歳の頃から自然に作曲を始めた」という岡本正美は、まだ戦火の遠かった昭和七(一九三二)年十二月二十五日に、岡本祐信を父に、ハルを母に、三女姉妹の末娘として生まれた。

 祐信は昭和初期に、銀座二丁目で大衆向き、米国本場仕込みの本格洋食レストランを成功させた実業家である。出自は大阪尼崎の浄土真宗の寺であったが、寺を継ぐ意志はなかった。ところが、当時流行りのコレラで父と兄が他界した。祐信は考え悩み、新天地を求めて単身アメリカに渡った。皿洗いから始めて、レストランで働き、二十年を経て帰国したのだった。すでに三十九歳であった。
在米中にキリスト教(プロテスタント)の洗礼をうけ、日本の教会の橋渡しにより京都で十三代目を継ぐ材木商の娘を紹介された。帰国は彼女との結婚のためであった。
娘の名は桝井ハルといい、同志社大学の英文科を卒業した才媛であった。彼女もクリスチャンであったことが、祐信との縁となった。絵も得意とし、作品が関西のショーウィンドーを飾ったこともあり、さらに音楽にも長じていた。女子が大学に通うにも着物であった時代に、洋服姿で材木の上でマンドリンを弾くハイカラ娘であり、オルガンにも励んだ。三女正美が幼い頃から音楽に秀でたのは、この母の血によろう。
祐信四十歳、ハル二十四歳。祐信としては晩婚、しかも二人の歳は十六歳離れていた。
結婚後ただちに、祐信はアメリカでの二十年間の蓄積と明日への野心を、日本のハイカラのメッカである銀座に注ぎ込んだ。アメリカに移民在住していた友人二人を呼び寄せての『オリンピック・レストラン』の創業である。
十年ひと昔ならば、二十年は大昔。アメリカ帰りの創業者たちの目にすべてが一変していた日本にあって、一つだけ変わらないものがあった。庶民の口にはまだ程遠い、依然としてフランス式一辺倒の西洋料理である。祐信たちはそこに着眼した。実質本位、食材のもち味を生かし、しかも皿に盛りだくさんのアメリカ式の家庭料理で勝負に出たのだ。
店はたちまち繁盛し、創業七年目で洋食レストラン日本一の売り上げを出すまでになった。テーブルに日本で最初に“水”を出したのがこの店であり、お子様ランチを編み出したのもこの店である。支店も二つもつようになった。銀座数寄屋橋、現在の不二家に一店舗。新宿、現在のワシントン靴店にもう一店舗。

 岡本正美は、こうした祐信と妻ハルの三女として、昭和七年十二月二十五日に生まれた。後にキリスト教(プロテスタント)の洗礼を受け、仕上げた七つの交響曲すべてのタイトルを旧約聖書にあやかった正美は、キリストの誕生日と同じであることをつねに誇りとしていた(もっともこの日がキリストの誕生日でないこと、史実でないことは、いまや誰もが知る)。

 三姉妹の幼い頃の模様を尋ねるために、長女の木村和美さん、次女の堀輝美さんが待つ世田谷区船橋の堀家を訪ねた。二人共にすでに八十歳前後のご高齢である。私の取材のために、輝美さんが別に住む姉和美さんを呼び寄せておいてくださったのだった。ご高齢にもかかわらず、お二人共シャンとした姿勢であったが、長女の和美さんは「もう、いろいろな事が昔のことになって……」と、しきりに記憶の衰えを口にされた。
「姉妹同士でも、幼い頃はよくケンカしました。妹は男の子のように勝気ではっきりしていましたから。一方で、デリケートなところもありました。そのためか、癇癪もちで、父の言葉によれば『活火山!』。そうした時に妹を叱るのは、きまって教育ママのはしりだった母でした。
父は大変な苦労人でしたから、しつけなど、私たちには厳しかったんですが、妹には終始おだやかでしたね。歳とって生まれた子だったからでしょう。妹も自分は父にかわいがられているという意識でいました」
そう、輝美さんは語る。
家は東急目黒線の奥沢駅近く、まだまわりに田園地帯が広がる一画であった。「モダンでハイカラな木造二階建て。私が生まれた時から水洗式で、玄関をあがると居間兼応接間。サンルームもあって、犬も猫も飼い、裏の庭にはウサギやニワトリも。まるで小動物園のようでしたんですよ」
補足する和美さんの言葉が、財をなしつつある昭和初期のとある一家の、平和で満ち足りた生活模様を彷彿とさせる。
ふたたび、輝美さん――
「父は事業で目いっぱいの人でしたが、家族との食事の時間はとても大切にしていました。母はそうした父によく尽くし、暇があれば家族のために編物に精を出し、刺繍を楽しみ、子供との外出のときはいつも手をつなぎ、歩きながら童謡を口ずさんでおりました。歌はとぎれることなく次から次へと……。
夏休みになると、上總湊の海岸や箱根仙石原の別荘で過ごしました。木イチゴを摘んでジャムを作ったり、従兄弟たちもやってきて一緒になってトンボや虫を追いかけ、自然の中で遊びました」
やがて戦火の時代になり、東京大空襲で一家の店も家も全焼してしまったという。銀座の本店・支店、築地店、新宿店、横浜伊勢佐木町支店――昭和二十年五月二十三日未明、東京最後の大空襲で、それらすべての店、二十年間の苦労の結晶が、わずか二時間で焼きつくされてしまったのだ。
「父の苦労は大変なものでした。焼けた材木の上に腰をおろし、頭を垂れていた姿が、昨日のように目に浮かびます――」
家は戦後建て替えられたが、祐信は間もなく株を売り、事業を人に譲り、事業いっさいから手を引いた。二、三アパートを経営しており、老後のための資産はしっかりと築いていた。
「妹が都立の三田高校から芸大を目指すようになって、その妹に初めて厳しい顔を向けたのが父でした。女が作曲? という意識があったんでしょう。どうしてもやりたいのなら、『勉強は自分でするもの』と言い渡したんです」
虎はわが子を谷に突き落とす。落とされずにすんだのは、すでに働きに出ていた輝美さんのお陰だった。
「芸大に受かるための作曲の勉強資金は、私が提供しました」

 話は先に飛ぶ。結婚後間もなく、正美は夫山本直純とこの家の裏庭に家を建て、父母の家と廊下でつなぐ二軒家二世帯生活に入った。以後、父母と山本家との半共同生活は、正美の父母それぞれが亡くなるまで続いた。
長男純ノ介、次男祐ノ介が相次いで生まれると、二児の世話、幼稚園の送り迎えなど、作曲や音楽活動に専心する夫婦をなにくれと助けたのが母のハルであったが、
「私たちが訪ねていっても寄せつけない時期があった」
と、和美さん、輝美さんは語る。
「たまにきて、なによ!――」
姉たちはいずれも離れて住んでいるのに、姉たちにも手助けしてほしいとでもいうのか? 年が進むにつれてはっきりと現われてきたのが、正美特有のこうした身勝手であり、それに反比例する父母への独占欲であった。なぜなのかは、後に譲る。
ただ言えることは、そうした彼女の熱風に遭っても、多くの人が次のように語ることだ。
「嵐が過ぎれば、なぜか、彼女が可愛らしく、いとおしくさえ見える。だから結局、許してしまう――」

オーストリアのユダヤ系作家、シュテファン・ツヴァイクは、『バルザック』の書き出しで次のように記している。
《あふれるほど豊かな創造力にめぐまれ、現実世界のほかにいま一つ完全な世界を打ちたてることができた場合、私生活の末の末に至るまで詰まらぬ事実に拘泥するなどということは、まずあり得ないことであろう。そういう天才は、現実をなんの容赦もなく変えてしまう、その意志の横暴ぶりに、一切を従わせようとする》(訳:水野 亮/傍線筆者)
岡本正美が天才であったとして、この書で以後つづられるように、バルザックと大きく違うのは、彼女自身にとっては自分の我意にウソはなかったこと(身分の低い出であったバルザックは、貴族の出であるというウソを平気で公言し、貴族の称号で署名などした)、しかしながら「現実をなんの容赦もなく変えてしまうこと」ができなかったことだ。ゆえに我意が、時に横暴な嵐となってまわりに及んだのかもしれない。

 ともあれ――裕福な家庭に育った正美は、自分の願うとおりの道に進んだのである。

▼銀行家・文学者一族、父は音楽家

百数十年の日本の洋楽史の中にあって、ついに! というか、驚嘆すべき! とでも言うべきか、高嶺の花であったクラシック音楽を、いっきょに、大衆のこころに、市井の隅々に、“お手ごろ”なまでにいきわたらせてしまった男がいる。
指揮者にして作曲家――山本直純だ。
すでに少年の頃から“日本のモーツァルト”と目されていた彼についても、その出自と音楽的土壌を抜きに、彼のその後を語ることはできない。

山本直純の家系とプロフィールは、彼の死(平成十四年=二〇〇二年六月十八日)後、遺児純ノ介氏と祐ノ介氏、関係者にて編纂された、彼を偲ぶ『人生即交響楽』に詳しい。
要約すれば、次のようになる。

明治の元勲岩倉具視の側近であった曾祖父の直成は、商業の才もあり、銀行の頭取となって相当数の株を所有したという。
その資産を継いだ直成の次男直良は、軽井沢に二十七万坪の土地を所有。そこに洋式の三笠ホテルを建て、千代田区麹町の広大な土地に邸宅、中野区野方に敷地面積二万坪もの別荘を所有した。相場を豪快にやり、豪快に失敗した。直良の妻は、白樺派を代表する作家・有島武郎のすぐ下の妹・愛子であり、直純の祖母に相当する。
こうした文実(文=文学、実=実業)両道に長じ、熟した家系のもとに生まれたのが、直良の三男、戦前の洋楽界を牽引()した作曲家および指揮者であった父・直忠だった。
直忠の洋楽への傾斜は、明治の文豪・幸田露伴の妹、幸田延にピアノを習うことに始まった。祖母・愛子の弟は、白樺派三兄弟(有島武郎・有島生馬・里見 弴)と称されたうちの生馬であったが、その妻・信子には半分フランスの血が混じっているピアニストでもあり、彼女よりクラシック音楽の影響を受けたことも、その後の直忠を決定した。
暁星中学四年の頃、近衛秀麿に作曲、指揮法などを幅広く習い、山田耕筰にも師事した。家の資産に恵まれていた直忠は、中学を卒業後、単身ドイツに向かい、ドレスデンでワーグナーの孫にあたる人の別荘に住み、ライプチヒ国立音楽院の作曲理論科に入学した。ここで学んでいた日本人三人のうちの一人が、後に直純の指揮の恩師となる斎藤秀雄であった。
六年間の留学を終え、三年に及ぶ世界一周を経て帰国し、今の国立音楽大学、当時の東京高等音楽専門学校で教鞭をとり、この時学生だった大橋浪江(ピアニスト)と知り合い、後に結婚する。浪江との間に生まれた長男が、直純である。
直純の母・浪江の家系であるが、出身は兵庫県西宮市、浪江の父・大橋純一郎は同地で実業家として腕をふるうかたわら、明治の時代にあってヴァイオリニストとしても活躍し、自分でオーケストラをもとうとした人物であった。したがって直純は、父ばかりか、母方の音楽素地も受け継いでいる。
直忠に話を戻せば、その後彼は、自由学園の音楽教師や新交響楽団(現・NHK交響楽団)の指揮者などを歴任。群馬交響楽団の創立に協力し、一九五〇年に受洗してカトリック教徒となった。晩年は南山大学教授を務めるかたわら、宗教音楽の創作をライフワークとし、グレゴリアン・チャント音楽学会理事長として宗教音楽を研究。聖イグナチオ教会でオルガンを弾き、同教会司祭ヘルマン・ホイヴェルスの作品に基づくオラトリオ『受難』を発表。聖歌隊の指揮者を務めるなどした。
 作曲家としては、昭和九年、日本音楽コンクールの作曲部門で優勝(第一位)、あわせて文部大臣賞を受賞している。

直純は難産の末の出産であった。出産時、入院先近くの日本橋白木屋デパートの火事の炎を目にして浪江の出産が止まり、翌々日にひょっこり、未熟児として誕生したからだ。よって生後の直純の胃腸は弱く、浪江は一年間毎日食事日誌をつけ、その模様が『婦人の友』に掲載されたという。やがて直純は自由学園の初等部に入学するが、一年次に六十日も欠席している。後に芸大の女子大生からハンペン呼ばわりされる直純であるが、いわばこうした腺病質の児童に、なぜか天才児が多い――。
山本直純の生年は昭和七(一九三二)年。正美と同年である。ただし、月日は十二月十六日と、十四日早く生まれた。正美がイエス・キリストと同日の生まれであるのに対して、直純はかのベートーヴェンと同日の生まれ。なにやら暗示的ではある。

直純を筆頭に六人の子を授かった一家は引っ越しをくり返した。中野区の千光前町から大田区の千束へ、中野区の野方へ、豊島区の鬼子母神前へ、またさらに鎌倉の由比ヶ浜へ、新宿区の下落合へ、豊島区の東長崎へ……。戦火や直忠の仕事の都合にもよったが、鎌倉への移転は病弱な直純の身体のためであり、それ以前に鬼子母神前に居を構えたのは、絶対音感を会得させる自由学園の早期音楽教育クラスに直純を通わせるためであった。
両親の直純にかけた期待の大きさが想像できる。

学齢に達し、直純はその自由学園の初等部に入学した。そのために一家は鎌倉を引き払い、通うに近い下落合に移転した。
自由学園は、クリスチャンでジャーナリストだった羽仁もと子と吉一夫妻が、“自由人”を育てるために創設した教育機関である。早期教育クラスの卒業式で、直純は『オモチャの交響曲』、『森の鍛冶屋』、『ロザムンデ序曲』、『時計屋の店』などの曲を指揮した。直純の人生初の棒振りである。
初等部に入学後も直純の音楽漬けは続いた。毎朝の礼拝の讃美歌伴奏(ピアノ)を受けもつ。鷲見三郎にヴァイオリンを習う。小学校の中途あたりから父・直忠もこの学園に深くかかわるようになり、音楽を担当した。太平洋戦争開戦の日(昭和十六年十二月八日)、軍部の干渉で音楽教育が止められていた最中、直忠は自由学園の全校生徒による『第九』の演奏を指揮した。

完璧なまでのこの音楽一家に思わぬ不幸が訪れた。母浪江の死である。昭和十九年、父の弟(画家)の転居に伴い、東長崎のその家に転居した一家であったが、ここで六人目となる次女を生んだ浪江が、戦時中に年子を産んだ無理も含めて、夏の真っ盛りに脳炎で他界したのである(九月三日)。わずか三十六歳。直純、十一歳。
直忠は間もなく後妻を迎え、後妻との間にさらに二人の子をもうけたが、ふつうの女性であった継母に直純がなじむはずもなかった。直純特有の“人恋しさ”、“さびしがり”は、幼くして母を失った母性への飢えに端を発し、後に、妻となった正美との激しいやりとりの遠因にもなっていたのではないかと推量する。
後年、直純の胸中に偲び湧いたのが、兄弟姉妹が枕を並べて床についた後、隣室から聞こえてくる母の弾くショパンの調べであったという。家には二台のピアノがあり、浪江の夢は一方に直純が座ってコンチェルトを弾き、自分が伴奏すること……。「今も住宅街を歩いていて、どこかのお嬢さんが下手なショパンを弾いているのを聞くと、子供の頃、寝床の中で身体中がじーんと熱くなったあの感覚が、なぜかよみがえってくる」と、直純は記している(自著『紅いタキシード』東京書籍刊)。

後に『ウィット・コンサート』なる仕立てあげで世間から喝采を浴びた直純であったが、その根は終生、純音楽(*1)の大の信奉者であったことを忘れてはならない。
ともあれ、幼児期から高校まで、音楽漬けを可能としてくれた自由学園で過ごしたことが、直純に計りしれないプラスをもたらした。まさに自由に、成せるがままに彼の音楽の才を伸ばしたからだ。芸大生となった頃には、誰からも“現場に強い”(まれな音楽家と称されるにいたっていた。
ちなみに、自由学園を経た芸術家は多い。女優の岸田今日子、映画監督の羽仁進、オノ・ヨ―コ(幼児生活団)、作曲家では林光、三善晃(幼児生活団)、坂本龍一(幼児生活団)……。

*1 純音楽――ここで言う純音楽とは、劇伴(映画やドラマの伴奏音楽)やコマーシャル音楽など、商業ベースでない、純粋な作曲作品。文学でいえば純文学に相当するクラシック音楽のこと。
*2 幼児生活団――自由学園の創設者・羽仁もと子が、小学入学前三年間の大切な幼児期に、団体生活と家庭生活を通して子供たちが自らよい生活習慣を身につけ、心も身体もひとり立ちの基礎を築いていけるよう願って始めた、週一回集合方式の幼児教育。

▼正美の集団疎開と戦後

正美と直純のどちらも裕福(を家系としていたとしても、時代の波はどのような者にも等しく降りかかる。特に幼児期、三つ子の魂百まで……ではないが、少女・少年期の経験は終生その者の心に染みつく。その人間の形成の核ともなる。
同じ昭和七年生まれ、共に東京育ちの正美、直純も、時代の波を等しく受けた。言わずもがな、米軍機の空爆を逃れるための学童の集団疎開である。
特に、それまでなに一つ不自由なく育った正美にとっては特別な経験であったようで、後々の六十一歳の時に著わした自叙伝(『ヒヤシンスのいえ』集団疎開の部)で、その時の模様を熱を込めて記している。

東京空襲による戦火が激しくなり、中学生だった姉たちが父の会社の清里(山梨県)出身の社員の口利きでそれぞれ渋川と高崎に縁故疎開となったのに対して、小学六年だった正美は、一人、同窓の学友と共に信州・松本への集団疎開となり、正麟寺を寄宿に現地の小学校に通うこととなった。
当然ながら、まず、食事がまるで違った。朝はご飯とみそ汁のみ。昼と夜は丼一杯の汁の中にスイトンが一つか、二つという悲しい日々。栄養失調でフーセンみたいに膨らんだ正美であったが、存外に気丈夫だった。

まずは、正義の使徒と化したことだ。
子供は食喰である。ましてや戦時下の疎開地――。
途中から疎開に加わった、同じ六年生にしては大男すぎる沖縄出身のHが、牢名主のような行動に出たのだ。食事になるとHの割りばし一本がまわってきて、特に年下の女の子のスイトンが狙われ、一つ、また一つと突き刺されたスイトンいっぱいの箸がHところに戻り、その口に収まるという次第だった。女の子たちは逆らうと後でひどい目に遭う。それをかばったのが正美であった。
イエス・キリストの石をパンに代えた山上の食事のようなことを、それと意識せずにやってしまったのも正美であった。パンに代わるのは本堂の前に干してあった大量の大豆であり、周辺の石はたちまちカマドとなり、炒った大豆は少女たちの口に収まった。「あーおなかいっぱい!」。どの子も、疎開の地で初めてのシアワセを噛みしめた。
彼女たちを呼び集め、すべてをテキパキと指示したのは正美であり、たちまち教師、住職からこっぴどく叱られたのも彼女であった。
正美は当時を思い出し、自叙伝のなかでこう記している。

――襖一つ阻てゝ、別の、食事らしい食事、をしていた先生方…時折、宴会もして居られた先生方…や、疎開の子は人間とは思わん―と言わんばっかりの、何かにつけて冷たかった、この寺の和尚さんも、恨みたくない。屹度、私の神さまから、その何十倍もの罰を受けているだろうから。……その為にも、主は、幼い私を敢えて派遣させられたのであろうから――(原文のまま/傍線筆者)。

父母の手、住み慣れた都会から離れてのこの間の生活の最中、いわゆる正美特有の“癇癪”、父が言うところの“活火山”と化すこともあったようだ。正美は自省を含みつつ、次のようにつづる。

 ――とにかく母の手に負えない、我がままというか、父親に云わせると、自分の中にちゃんと物差しがある、と云う事だが、ちょっとでも、外れる事があると、妥協しないし、間違った事を強要されると、もうめちゃくちゃにヒートアップして、きかん気を発揮、手が付けられなくなる。それを当地でも、一度、やってしまったのだった。何のその、自分の思っている事が通るまで、興奮の余り、手が痺れても、止めない程の徹底ぶりである。私は我が儘では決してなく、無神経なことをされた時、個人を尊重されない時に断固として、自分の意志を主張し通すのである。 いつも、そして、又、確かにそれは、正しいのだ。いつも!……(中略)……正しいことは、(主のみこころは)命をかけて守り、貫き通すための、クリスチャンスピリット……(中略)……それは、子供((ママ))に、正しいと思って純真に発言したり、行動したりした事を、不信仰なる悪魔の手から、命を賭けて守り、神の愛を貫き通すための、痛ましい迄の幼き戦いとでも云うべきものだったのである――(原文のまま/傍線筆者)。

 直純との結婚後、世の寵児となった直純の多忙ゆえか、あるいは同じ作曲畑での互いの差異が大きくなっていくことによってか、年がゆくにつれて、夫や周辺に対するヒートアップが頻繁になってゆく正美であったが、この回想文で彼女は自分のその“根”をちゃんと認識はしている。ただし、文中の傍線でもあきらかなように、それに対する自らへの深い省察にまではいたっていない。代わってそこに顔を出すのが、彼女固有の「私の神さま」であり、「神の愛」、そのための「戦い」という自己承認であった。

 幼い頃より正美は、両親に従って教会に通うキリスト教(プロテスタント)信者であった。ここから先は著者の私見となるが、正美のこの他者への“戦い”の根には、彼女の宗教、彼女特有の信仰が深く関与しているように思える。
東洋の宗教を代表する仏教が「万物流転」(ドイツの哲学者ニーチェの言うところの「永劫回帰」)の思想であるのに対して、西洋の宗教であるキリスト教は「神に選ばれし者(民)」という“選民”思想が根底にある。一種の心的ヒエラルーキーでもある。であるから、彼女の人一倍の正義感には、神に代わって自分が……という強い思い込みが伴ってしまうのだろう。東洋的に言えば、巫女的な自己高揚とも言うべき発現となって――。ともあれ、この自叙伝から、集団疎開という閉ざされた日々でありながら、信州の山野、田園のただ中で大いに自然とふれ合い、人一倍溌剌としていた彼女の様子が()える。
ここで正美は晩夏を過ごし、秋を過ごし、正月を迎え……中学を受験するために帰京する。終戦の半年前であった。間もなく、最後の東京大空襲で父の店も、家も、跡形もなく焼失するが、正美はその時期もくじけることなく乗り越えていたようだ。
終戦の翌年、新築の家の庭で、正美は次のような歌を詠んだ。

岩陰に
潜(かく)れて見ゆる
露草の
色にも増して
空は晴れたり

中学二年生。この頃より、正美は自然に作曲を始めるようになった。

▼直純の集団疎開と戦後

 山本直純も正美とほぼ同時期に、西那須野へ集団疎開した。ただし、彼の場合は、“痛恨の、まさにその最中に――”と、書き加えなければならないだろう。東京から疎開地である「自由学園西那須野疎開学級」に向かったのは、昭和十九年の九月の末であったが、この月の初め(三日)、一ヵ月も経っていない前に、母を喪(うしな)っていたからだ。
しかしながら、彼もまた気丈夫にこの時期を乗り越えた。彼の終生の身の内ともいうべきヤンチャぶりも大いに発揮された。
母の死を背負ってまばたきする間もないなかでの生活の大変動であったが、事態や環境がどのようなものであっても、子供にとって、日々は自分の生の横溢(おういつ)の時間にほかならない。

 彼のヤンチャぶりを示したのが、教師に向けての「お菓子クーデター」事件である。
女子部のある子が先生たちの部屋のそばを通ったとき、部屋で先生たちがお菓子を食べていたのを見た! というのだ。食の恨みは一生の恨み。ましてや超粗食に耐えていた疎開児童の腹である。
「誰もが空腹をガマンしているのに、先生たちだけがイイ思いをするのはケシカラン」ということで、子供たちは「抗議団」を結成し、皆が寝静まったある晩、先生たちの部屋へ討ち入りしたのだ。ホウキを投げたたり、抗議文を読み上げたり。
仲間たちからその先頭に押し出されたのが直純であり、彼一人を残して他の者はすぐさま退散し、一人ネズミのように逃げまわったのが直純である。結局先生たちに捕まり、「要注意人物」とされてしまった。先頭に立たされてしまう、ソンな役割を一手に引き受けてしまう、罪をかぶる……ネズミのように逃げまわる特技()? 「要注意人物」とされてしまったことも含めて、天才というコインの裏側――終生彼の性向となったこうした側面は、すでにこの頃からであった。
このエピソードには、じつはオチがあった。先生たちの菓子食いは、それを見たという女の子の夢であったのだ。直純、さぞかし地団太を踏んだに違いない。

那須高原と言えども東京に近い。米軍の爆撃機が上空を()くと、自分たちで掘った防空壕に避難し、半日うずくまったことも度々であったという。
これまでになかった家族()()結束()もみた。東京はますます空襲サイレンに明け暮れ、しかも寡夫となった父・直忠は、直純を除く五人の子供を抱えて途方に暮れた。音楽活動どころではなかった。食う()こと()百パーセントとなった直忠は、農夫となって命をつなぐことに踏み切った。直純が寄宿するところからわずか一キロ、西那須野近くの農家に残る五人の子供を引き連れて転居し、野良仕事で口をそそいだのである。学級が休みとなると、直純はその借家に向かい、父の畑仕事を手伝った。戦時中でありながらの牧歌的な日々でもあった。

 ほどなく終戦の年を迎えた。その年が直純の小学校の卒業の年であった。が、卒業式すらなく、帰京もなく、西那須野でさらに集団生活を続けながら、直純は自由学園の中学生となった。
八月十五日を過ぎてしばらくして、直純と一家は東京に戻り、直純はひばりが丘の自由学園の寄宿舎に入り、高校一年までそこで過ごした。
自由学園では生徒全員がなんらかの楽器を受けもたされた。直純は指揮をしたり、編曲をしたりなど、音楽に明け暮れる毎日であった。また、植林のため、山小屋での合宿も経験した。
音楽家となってずっと在野でやり抜いた直純であったが、その逞しさ、強さの素地は、戦中の集団疎開生活、戦後自由学園での寄宿生活にあったのかもしれない。
もう一つの重要な素地。それは、指揮の恩師となる斎藤秀雄の「斎藤指揮教室」に、中学の頃より通い始めたことだ。

▼山本家と著者

 さて、ここまで筆を進めて、この評伝をつづる筆者と山本家……つまるところ筆者と正美さん、直純さんとの関連をあきらかにしておかなければならないと思う。
そこで浮かぶのが、以下の情景である。

 渋谷の雑居ビルの二階に、放送・テレビ局・劇団関係者、指揮者、演奏家、落語家などが(する居酒屋がある。仮に居酒屋「S」としておこう。店内はわずか十坪ほど、六人ほどがやっと座れる狭いカウンターと、四、五人がけのテーブル座席が二つ。まさに肩を寄せ合う店である。
俯瞰すれば、長方形のスペースの上部右角が四分の一円形のカウンターになっており、その内側に店主が立ち、その奥の暖簾()で仕切られて客からは見えない半坪ほどの厨房にママさん(店主の奥さん)が控えている。二人共に人生の酸いも甘いも嗅ぎ分ける還暦前後の年齢であった。その分、客に対して辛辣()であり、それをも「楽しんじゃう」という客たちが我先的にカウンターに尻を置く。そのカウンター客はと言えば――いずれも唯我独尊的な大の大人たる男女が、酔いに任せて勝手気ままにその時々の話に花を咲かるのは当然として、男どもが時に下ネタにいたるのも、酒の席の当然。するときまって、その語尾にいたる前にサーッと暖簾が押し上げられ、真一文字に口を結んだママ様が現れる。その手にポスターを丸めこんだような長筒。それを振り上げて、言葉を発した客の脳天をポカリと叩く。
佐々木小次郎の燕返しならぬ電光石火の長筒落としである。当人も心得たもので、サッと頭を下げて「スンマセン」とそれを受ける。とぼけてニヤケタままの客に対しては、「アタマを下げなさい!」の一言。結果は同じである。

 そうしたSでのある晩、その夜は特に薄暗く思えたカウンター席とは対極のテーブル席の最奥に、周辺とまったく空気を別にする初老の男がいた。その男の周囲五十センチあたりまでが異次元なのである。眼鏡の奥の両眼は見開かれて静止し、口髭、顎鬚がさらに雰囲気を()していた。言ってみれば、哲学者然としてそこに座しているようだったのだ。「渋い!」と、訳もなく思った。TV画面などで識るその()()とはまったく違う彼の素顔、人に知られざる一面を見た思いにかられたからだった。
彼こそが山本直純その人であり、私がナオズミさんを(に目にした瞬間である。

 その頃の私は三十代半ば、広告領域でのプランナー、コピーライターとしてデザイン工房、代理店、広告制作会社などを三、四社渡り歩いた後、青山のマンションの十坪ほどの一室で事務所を開設し、フリーランサーとなって四年を経ていた。
頃はバブル経済絶頂期であった。独立して二年後に、室内楽の企画、プロデュースを始めるという二足の草鞋()を履いた。もちろん背景はあった。音楽的素養も環境もなかった家庭に育ちながら、小学校上級の頃にレコードを通じてクラシック音楽にとり()かれたからだ。今風に言えば、オタクである。中、高校生のころ、無謀にも「指揮者か作曲家になれないだろうか」と夢見たことも。夢がカタチを変えてぶり返した。住まい近くの居酒屋で在京某オーケストラのコンサートマスターと知り合い、「室内楽をプロデュースしようか」となり、それが二足の始まりとなったのだった。
周囲の懸念を他所((よそ)に、ケヤキ並木でも有名な原宿の表参道を公演の拠点としたのが幸いし、『アンサンブル・ゼルコーヴァ』と銘打っての自主公演がしばらく続いた。ゼルコーヴァとは英語でケヤキを意味する。一年半ほどを経て街の注目するところとなり、商店街の支援と大手ビール会社の協賛を得て、原宿の音楽イヴェント『原宿・けやき基金コンサート』へと発展し、以後十五年続いた。私なりのクラシック音楽の大衆化でもあった。
このコンサートが効を得て、地方の新築コンサートホールでの杮落し公演、地方自治体依頼による公演、ギャラリーやサロン等での中・小のコンサートを重ねることとなり、十七、八年間で公演数は七十弱を数えた。音楽事務所ではないがゆえに多いとは言えないが、一個人としては中身の濃い公演の数々であったと思っている。そのように実現できたのも、出演いただいた演奏家各位はもとより、多くのクラシック音楽関係者、プロデュースの先人の方々の協力があったればこそであったことを、あらためて感謝せずにおれない。
ご出演いただいた方々は、当時国内第一級、国際コンクールで優勝、凱旋したばかりの演奏者、ヴァイオリンでは国内交響楽団のコンサートマスター――などを多く含む。ヴァイオリンの深山尚久さん、景山誠治さん、漆原啓子さん、漆原朝子さん、徳永二男さん、山口裕之さん、石川光太郎さん、尾花輝代允さん、矢部達也さん、山本友重さん、松原勝也さん、小林美恵さん……ヴィオラの生沼誠司さん、菅沼準二さん……チェロの田中雅弘さん、徳永謙一郎さん、藤田隆雄さん、山本祐ノ介さん、向山佳絵子さん……ピアノの小山京子さん、梅村祐子さん、野原みどりさん、有森直樹さん、前橋由子さん……ハープのヨセフ・モルナールさん、吉野直子さん……フルートの大和田葉子さん、有田正広さん……クラリネットの村井祐児さん、ホルンの石川明さん……パーカッションではマリンバの神谷百子さん……二胡の姜建華さん……声楽ではソプラノの秋山恵美子さん、崔岩光さん……等々。能の観世栄夫さんに能舞を舞っていただいたり、舞踊家の出演もあった。
プロデュース開始間もない頃、出演いただいたヴァイオリンの漆原啓子さん、正美さん直純さん夫妻の次男でチェリストの祐ノ介さんは、まだ芸大生であった。その兄である作曲家の純ノ介さん――彼もまた居酒屋Sの常連客であり、弟祐ノ介さんの紹介もあって、やがて互いに仕事を出し合う仲となった。

正美さんを初めて目にしたのは、奇しくも直純さんと同様にそのSと関連する。
直純さんを初めて目にして間もない頃であった。Sは開店後二十五年目を迎え、店主夫妻のその間の労をねぎらう祝賀会が新宿のホテルで催された。余興で、当時読売日本交響楽団のコンサートマスターであった尾花輝代允さんがソロ演奏し、次いで、公演から駆けつけたソプラノの秋山恵美子さんがベルディーの椿姫のアリア『乾杯の歌』を歌う段となった。が、ピアノ伴奏の楽譜がない。そこにやおら現れ、空で伴奏し始めたのが直純さんであった。プロから見れば当たり前のことだろうが、素人から見ればその達者ぶりに目が釘付けとなった。もちろん、あの夜の哲学者然ではなく、TVのブラウン管を通して見るいつものナオズミさんであった。
同時に他へと目が釘づけとなった。ナオズミさんが奥さんを伴って参加していたからだ。風評にすぎなかったSでの仕入れ――「ナオズミさんの奥さんは猛烈な女性」――その正美さんを、直に目にしたのがこの時である。

 間もなく、純ノ介さんとの親交が深まり、彼には私のその後の主だったコンサートの司会に立っていただき、共同でCDを制作・発売し、その録音では直純さんに棒を振っていただき、純ノ介さんの交響曲の初演を私が手伝ったりした。必然的に、直純さんの酒の席に同席させていただくことも幾度かとなった。

 ある日純ノ介さんのはからいで、直純さんが音楽を担当する映画の録音に立ち会わせてもらった。終了して録音スタジオを後にし、渋谷の奥まった直純さん行きつけの居酒屋の二階、畳敷き四畳半ほどのスペースで、直純さん、純ノ介さん、私三名での酒宴となった。腰を沈めるなり、直純さんの熱弁が始まった。「監督は音楽というものがわかっちゃいない。音楽というのはねえ……」――滔々()とまくしたてる直純さんの弁は一時間ばかりも続いた。語る相手は弟子でもある純ノ介さんだ。ついに私を思い出したのか、私の方に顔と身体を振り、笑みを作り、「やあ、マツオさん、人の悪口を言うというのは愉快なことだ」と弁を締めくくった。腕白坊主そのままのようでありながら、キチンと大人の気遣いもある人なのだと強く思った。
またある時、私と純ノ介さん、その他二、三名で飲んでいた席に直純さんが雪崩れ込んだ。すでに糖尿病の身でありながら、直純さんはかまわずに酒を口に運んだ。夜も深々とふけ、梯子()するたびに一人抜け、二人抜け……四軒目あたりの古い居酒屋で、ついに直純さんと私の二人になった。大学で哲学を専攻した私との話はその方面に発展していたが、哲学にも種々の造詣のある直純さんに驚いた。前日の夕刻五時から飲み始めて、すでに朝の七時である。ついに腰を上げた私に、「帰りの電車賃――」といって、直純さんが一万円を差し出した。無論私は丁重にお断りして帰路につきつつ、一緒に仕事した時の次男祐ノ介さんが語った言葉を思い出した。
「オヤジの付け払いが凄いんだなあ。月末にドカッと寿司屋の付けの請求書がくるんです。五百万円くらいドカっと。どうしてだと思います? オケ(オーケストラ)のリハ(リハーサル)が終わるでしょう。すると楽員皆を引き連れて寿司屋へ繰り出す。無論、オヤジの奢り――」
刹那(せつな)に、頭に角の生えた妻たる正美さんの顔が浮かぶ話であった。
豪放(ごうほう)磊落(らいらく)な散財家であると同時に、まれにみる人情家であったことは確かだ。めぐる飲み屋は薄汚れた暖簾の店ばかり。彼の代名詞でもあるフ―テンの寅さんそのままである。後に記す祐ノ介さんの吐露――「父は一種無頼漢のような生活者でしたから、下町のラーメン屋、千切れそうな暖簾の居酒屋、屋台の夜泣きソバ屋……そうした所を連れまわし、母は見るもの、聞くもの、食べるものすべてが珍しく、初体験、いままでの自分の身のまわりとはまったく違う別世界――ということで、だんだん楽しく、面白くなって、父の世界にはまっていったんでしょうね……」。その地のすがたを、私は追体験していたことになる。

 純ノ介さんの作曲工房は、彼の実家のすぐ近く、山本家が所有するマンションの地階である。出入りしていた私は、正美さんにも幾度か接することとなった。そればかりか、直純さんが亡くなられた半年後、近くで純ノ介さんと痛飲した私は、純ノ介さんと共にその家に泊まったうえ、直純さんが使用されていたベットで寝せていただき、朝は正美さんがかいがいしく作られた朝食をたらふく馳走になった。母思いの純ノ介さんは、すでに娘さん三人の父親であり、実家とはスープの冷めぬ距離にある工房と同じマンションに家族と住むが、直純さんの死後、夜は努めて母一人の家で寝泊まりしていたからでもあった。
新宿のホテルで催されたS店の祝賀会で目にした正美さんへの印象は、風評どおりであった。濃いピンク系の花柄のような派手なワンピースをまとい、身体は太く、並ぶ直純さんが半分に見えた。両眼はアフリカ草原の野生の動物を想わせた。
その後の……後につづることになる彼女の爆発ぶりのうちの二、三は、風評ではなく、純ノ介さんの工房への出入りなどの際に、実際に私が目にした光景でもあった。しかしながら、その日の朝の食事を提供する正美さんのすがたは、まるで違っていた。
「パパがあんなだったからね……うふっ……」などと、心に浮かんだことをそのまま口にし、その口調は歌うがごとく、頬笑み、肩をすぼまし、溌剌とし、しかも体の隅々までがその口調に合わせてリズミカルに動く。
すでに記したように、姉たちが語った「結局は憎めない」ということ、取材した方々のほとんどが口にした、正美さんの人の数倍も陽気なすがたである。
総合すれば、私もまた「猛女」であって「童女」である正美さんを知ることになっていたのだ。

その正美さんが直純さんの後を追うようにして亡くなられてから七年を経て、純ノ介さんから私へ話があった。
「母のことを書いてもらえないだろうか――」

逡巡(しゅんじゅん)した。
私にその資格があるのだろうか。なぜなら、正美さんと直に接した時間は、純ノ介さんを始めとする山本家との二十年以上にわたるおつき合いの中で、合計しても三日間に及ぶかどうか――でもあったからだ。
それに、正美さんをつづるのには、風評からしても、その後私自身が直接目にした光景からしても、表現に苦労すること明々白々であった。

しかしながら……私は飢えていた。かつての回路に飢え、新しき回路に飢え、音楽の現場にも。
バブル経済崩壊後、広告分野での仕事が激減し、私は仕事の主力を月刊誌のルポライティングに移していたが、ITの進化によるインターネット(ウェブサイト)の爆発的な普及により、出版を含む紙媒体のことごとくが縮小、委縮へと向かっていた。
コンサート・プロデュースはバブル崩壊後もなんとか粘れたが、メインであった『原宿・けやき基金コンサート』を支援していただいていた街の商店街振興組合の体制の組み直しもあって、ついに終焉(の時を迎えた。その他の公演もなくなり、早十年となりつつあった。音楽への私なりの回路も断たれていたのである。

 多くの演奏家と接し、演奏する舞台とは別の素顔、生身も見続けてきた。しかしながら、Sの片隅での「直純」さんと、マスコミでの「ナオズミ」さん、そこに横たわる陰影―― そうしたことをことさら強い印象として受けた音楽家は他なかった。
一つ言えることは――直純さん本人がそうと思っていたか否かにかかわらず――すでにつづったように、直純さんの背景には、直純さんの父直忠さんを第一級の音楽家に育て上げた潤沢すぎるまでの資産形成があった。明治期の名だたる銀行家となった曾祖父、軽井沢におけるホテルの始祖とも言うべき三笠ホテルを創業した祖父。二代が築いた財力があってこそ、直忠さんは終戦はるか前にドイツのライプツィヒ国立音楽院に自費留学して六年を過ごし、帰国に際しては三年間にも及ぶ世界一周旅行を果たすという贅沢さえ行えたのだ。 次いで言えることは、母方である。大正デモクラシーを背景とした文学思潮――白樺派の作家を系譜としていた。
あきらかなのは、潤沢()すぎるほどの財力とその時代を集約する教養とが、直純さんに圧縮されていたことだ。もっとも、資産については、父直忠さんの代で尽きていたのではないかと言える。次章で記すように、戦後直忠さんは自宅に電話をひけず、隣の村上家の電話を利用している。芸術家は河原乞食――そうした側面との拮抗()を背負わなければならないのが芸術の世界である。しかしながら、財が尽きたからこそ、芸大卒業後の直純さんのマスコミでの稼ぎに拍車がかかったのではないのか――そう言えなくもないのだ。

 資力という意味では正美さんも同様であったが、直純さんとは違う意味で人物評価のワクを大きく外れた人である。ただ……お二人に共通することがあった。良くも悪くも「人間丸出し」なのである。人間を「望むことを望むべく」育成するというコインの裏面でもあろうか。ともあれ、そこまで()わな音楽家は、私が接した範囲では見あたらない気がした。しかも、その二人が夫婦となったのだ。その二人を通じて、正しくは――よく知られていた直純さんの裏に隠れていた正美さんに焦点をあてることによって、主人公たる「岡本正美」の人生がつまびらかになっていくことはもとより、今まで漠然としかしか捉えていなかった戦後日本のクラシック音楽のなんたるかが、クラシック音楽の大衆化の陽と陰とが、少しは見えてくるのではないのか――。

 純ノ介さんの作曲工房の床続きに倉庫がある。正美さんの直筆楽譜の累々、自伝自家本、直純さんの楽譜、かつてのお二人のマスコミ記事が、いずれも黄ばみ、埃をかぶり、まさに倉庫の塊として山積みになっていた。

私はまだ、足踏みしていた。正美さんの仔細()を、純ノ介さんからはそう直截()には訊けまい。なによりもか)によりも彼の母親である。友人の母親でもあるその人を、どこまで客観的に、思うがままに書き進めることができるのだろうか……。

 純ノ介さんが言った。
「思うように、好きなように書いてかまわないから――」
私は逡巡から解き離され、その山に向かっていた。 

(

)Ⅱ――芸大生の青春譚

 東京芸術大学――と聞くだけで、遠くを仰ぎ見る目になったり、逆に苦い顔となったりする人は、存外多いのではないのか。多分その人は、かつてこの大学への入学に燃え、しかしながら果たせなかった人ではないのか。
美術学部にせよ、音楽学部にせよ、芸大はその方面の学舎として、かつても今も最高峰であり続けている。二度も、三度も挑戦して、結局ダメだった……などは、司法試験や東京大学への挑戦に似てなくもない。
ちなみに、音楽学部だけに限っても、平成二十一年度の入学者総数はわずか二百三十八人であり、内男子九十六人、女子百四十六人(全体では女子の方が多い)。さらに作曲科に限定すると、総数十五人、内男子十人、女子五人である(こちらは男子の方が多い)。
岡本正美、山本直純らが入学を果たした昭和二十七年度はどうであったろうか。音楽学部への入学者総数は百七十二人、内男子九十六人、女子一四六人(男女比は平成二十一年度とほぼ同様)。さらに作曲科に限定すると、総数十八人、内男子十二人、女子六人(男女比は平成二十一年度とほぼ同様)であった。
言えることは四十七年を隔ていても入学総数はさして変わらず、いまだに門は超狭いのである。つまり合格者はその道の超エリート、ないしその予備軍であるということだ。
ならば芸大を出ればエリート芸術家、世界的な芸術家になれるのか、と問えば、そうでないのも事実である。例えば、世界的な版画家となった故池田満寿夫は、三度芸大を受験して三度とも失敗し、結局大学進学を諦めた。その本人がハッキリと言っている。「芸大に入らなかったからこそ、現在の自分がある」と。大学である以上、アカデミックな教育、育成を受ける。それが本人のその後にとって吉となるかそうでないかは、本人自身の問題であるからだ。

 音楽学部だけに限っても、本部・上野の構内は、短大? と思うほどに構内は狭い。しかしながら、いまもなお上野の森の最も静謐(せいひつ)な和みが構内全体をおおい、たたずめば別世界、いっきにアートでアカデミックな気分になる。いまでこそ一部の赤レンガ校舎を残して大半が鉄筋コンクリートに建て替えられているが、正美らが入学した昭和二十七年当時は、明治以来の木造、レンガ造りであったのだ。
ここを学舎とする合格者たちは、エリートであることは確かであるとしても、必ずしも良家の子息・子女、将来の紳士・淑女というイメージそのままではない。オーケストラであるにしろ、室内楽奏者であるにしろ、舞台に燕尾服などの正装で登場するからといって、人格、性格までもがそのようではないのだ。
演奏で昂奮するのは聴衆ばかりではない。むしろ演奏者の方である。演奏する本人たちが昂奮、高揚しなければ、熱は聴衆に伝わらない。しかも熱を伝えた演奏者たちのその熱は、演奏を終えたからといってそう易々とは冷めないのだ。アンコールに何度応じてもヘタらないほどに、ヒートアップしたままなのである。
体内に渦を巻いたアドレナリンがまだ残り、それを冷やすためか、酒が好きな者は、終演後のグイグイとなる。特に声楽家は、喉、肺、腹部を目いっぱい酷使した分、胃に流し込まれるその分量、食料は常人を超え、いつしか肥満体となる……というケースが少なくない。
いわばアドレナリン発散装置でもある音楽家に奇人、変人が散見されるというのも、こうしたことによるのかもしれない。

▼ヤンチャと質実剛健

「天衣無縫というか、驚くことを、あっと思う間にやってしまう凄いイタズラっ子でしたよ」
と話すのは、芸大に正美、直純と同期入学の、彼がその頃「大将!」と呼んでいた声楽家の村上絢子さんだ。
村上さんは二人と同期である以前に、直純とは幼馴染であった。さんざん転居をくり返した山本一家だが、前記のように昭和十九年の東長崎の家を最後に、直純は集団疎開、自由学園での寄宿生活を除いて、結婚までをこの家で過ごした。道を隔てたすぐ前の家が村上家であった。
戦後間もない頃まで、家に電話がある個人宅は非常に限られていた。村上さんの家に電話がひかれると、直純の父直忠は自分の名刺に村上家の電話番号を刷り込み、呼び出しの便をいただくなど、両家は一家丸々の親交関係にあった。
オテンバ娘村上さんとヤンチャ坊主直純のペアによるイタズラ歴は、幼馴染の頃から絶えなかったようだが、決定版は互いに成人した芸大時代のことである。
「もう時効ですが(笑)……上野公園に立てかけてあった『痴漢に注意』という大看板を二人で盗み、家までタクシーで運び、すぐ近くの家の門に立てかけたのです。あれ、どうなったでしょう?」
立てかけられた門とは、なんと首相まで務めた石橋湛山の家の門であった。このワルノリを先導したのは、無論、直純であろう。

閑話休題。直純は、受験失敗の浪人中に父直忠の弟子である作曲家・渡辺浦人の弟子となり、カバンもち、ゴースト編曲者・作曲家として、ラジオ局、映画スタジオ、当時世に登場したテレビ局に出入りしていた。入学後はさらに頻繁となり、授業に出るにもタクシー。習う教授よりも稼いでいた余裕によるが、学期試験のスッポカシが度重なった。
「兄さん! ○○先生が追試を受けるように、って――」
「おゝ、分かったゼェ――」
とある放送局の廊下である。声をかけたのは直純に遅れること三年後に芸大のオルガン科に入学した妹の照子であり、すれ違いぎわにそう叫んだのは直純であった。彼女もたまたまその局でオルガンを弾くアルバイトの日だった。分かったのか、否か? 直純は韋駄天のごとくにあらぬ方向へと走り去った。

褒めた話ではないが憎めない――という直純およびその悪友たちとの悪行、奇行は、共に指揮者を目指し、大親友となり、後にNHK交響楽団の指揮者となった一学年上の故岩城宏之の著書『森のうた』(朝日新聞社)に詳しい。
まずは、直純の登場ぶりである。

――食堂(学食・キャッスル)で、仲間の女の子たちとぼくは騒いでいた。
「ハンペンみたいのが来るわ」
とぼくの隣の女の子がいった。
もう一人の作曲科のブスが、こいつと顔なじみらしく、
「オモシロイ男の子だから、紹介するわ」
と、そいつを呼び寄せた。
やたらに生っちろい顔色、という印象で、どちらかというと細顔である。大昔には茶色だったみたいなベレー帽を頭に乗せ、無礼にも勢いよく、
「イヨーッ」
というのが、こいつの「はじめまして」のつもりらしかった。
もちろん田中角栄の「イヨーッ」はまだ世の中に知られていなかった。
……中略……
紹介したやつは、新しく入ってきたすごい才能のある作曲科の学生だ、といった。道理でいばっている、と思った。
……中略……
紹介したのが「これが打楽器科の岩城、こっちが作曲科の山本」といった。
また、やつの「イヨーッ」が出た。
大声にびっくりしてキョトンとしていたら、急に普通の声になった。
「岩城サン、オレのことをナオズミといってよ。ナオは不正直のジキ、ズミは不純のジュンです」
というのだ。こっちが一応、一年上であるせいか、サンをつけたり、デスといったり、礼儀正しくやったのだろうが、しかし妙になれなれしくもあった。
これが山本直純との出会いだった――(原文のまま/カッコ内は著者注釈)

全国放映のNHKテレビの『音楽の花ひらく』、全国行脚のTBSテレビの『オーケストラがやってきた』などで、紅いタキシードで身をまとい、時に浴衣に麦わら帽、草履ばきスタイルで舞台に登場し、顔面はヒゲとなりすまし、指揮台で棒よりも尻をふり、「イヨーッ」とは叫ばなかった代わりに「エイヤーッ」ばかりに飛びあがり……など、物議、喝采をかもし、唖然の態で聴衆を惹きつけ、もののみごとにオーケストラを率いきった後のナオズミであったが、そうした大胆不敵、傍若無人ぶりは、学食デビューの頃からであったのだ。

驚愕した岩城と驚愕させた直純は、やがて大の親友となり、大の悪友となった。どちらが、どちらか? 良貨は悪貨に染まる。互いをしてそうさせたのは、両者による「学友会交響楽団」の発足と、指揮科への転科あたりからである。
岩城は打楽器科に籍を置いていた。直純は作曲科の学生であった。岩城はスティックよりも棒をふりたくて仕方がなく、直純も同様。そこで二人は指揮科となんら縁のなかった二年次に、学内学生による「学友会交響楽団」の設立をたくらみ、実現させた。一日も早く指揮の旨味に浸りたかったのだ。

学友会交響楽団を組織したのは直純と岩城であるが、それを支え、時に大学側との折衝の矢面に立ち、汗を流したのは、直純と作曲科で同窓、当時学友会の副委員長をしていた助川敏弥だった。
助川さんが、この時の苦労から得たことを語る。
「学友会交響楽団の発足の際、大学当局が発足そのもの、奏楽堂の使用をなかなか許さず、かなり苦労しました。そういうあたりが官立の凄いところで、楽壇の設立理由と目的そのものが詰問されました。正規の講座があるのに、何の必要あってかようなものを作るのか、ということです。理解ある先生たちの協力を得てようやく発足が許され、奏楽堂の使用許可も得ることができたんです。
私自身に限っても、教授用のピアノにふれたかどで一週間の停学、登校禁止処分を受けたことがあります。
岩城は卒業間際にNHK交響楽団から指揮研究生の指名を受けながらも、単位が足らず、卒業不可能と判定され、退学しました。させられた! というがほんとうでしょうか。この時、彼はじつに憂鬱でした。しかし、こういう厳格な規律で圧力を受けたおかげで、世の中に甘えることのない心がけになりました。学校の宣伝のために、成績のいい学生を甘やかす私立にはない厳格さです。きびしい親に育てられたようなもので、いまではよかったと思っている」

学友会交響楽団のスタートさせた翌年、直純が三年の時、指揮科には名誉教授や教授、助教授ら四人が控えていたのだが、肝心の生徒がいなくなり、廃科になりかけた。そこで作曲科、指揮科の先生たちが目をつけたのが直純であった。すでに中学時代から斎藤秀雄から指揮の特訓を受けている。自分がふるために「学友会交響楽団」まで仕立てあげている。教授たちにすすめられて、直純は指揮科に転科することになった。三年次からの転科であり、指揮科でさらに三年、直純は計六年を芸大で過ごすことになった。
直純と同時に、岩城も指揮科の生徒になった。ただし彼は、打楽器科に籍を置いたまま、指揮科は副科としての選択だった。
こうして二人は新任の指揮者である渡邉暁雄教授の門下生となり、さらに仲を深めた。同時に、ペアーによるやり(・・)放題(・・)の始まりでもあった。

まずは、渡辺教授の門下生となる前、二人による「学友会交響楽団」創設間もない頃の、陽動(・・)作戦(・・)による「蕎麦代未払い」事件である。
二人の熱意に折れて、学校側は毎回二時間ずつ週二回、彼らオーケストラの練習場として由緒ある奏楽堂の舞台の使用を許可した。
二人は、構内に練習参加のポスターをベタベタと貼ったが、一回目は参加者ゼロ。二回目にやってきたのは、ヴァイオリンの女の子たった一人。業を煮やした二人は、食い物で釣る作戦に出た。「練習にきた芸術家には、一人盛り蕎麦二杯進呈」というポスターをふたたびベタベタと貼ったのだ。効果てきめん、終戦からかなり経っていたが、ゲイジュツ家の卵たちはまだ飢えていたのか、八十五人もやってきた。大学近くの蕎麦屋が店と奏楽堂を何度もゆききして出前した盛り蕎麦の数は、なんと百七十四人前。昭和二十八年当時にして三千四百八十円という総額だった。
真聖な奏楽堂ホールいっぱいに麺つゆとネギの匂いがたちこめ、客席のあちこちでツルツルツルツルの大合奏がまずあって、二人で指揮分担のベートーヴェンのシンフォニー『英雄』(第三番)の練習となった。
終了後、夕闇迫る構内で、二人が互いの指揮をけなし合っている最中に、出前の店員が三千四百八十円を集金しにきた。二人はどちらもお金のもち合わせがないことに気づいた。そこで二人がとっさにとった行動が、支払いから逃れるための陽動作戦だった。勝手知りたる校舎内、構内を二人別々に逃げまわり、結局その店員さんをまいてしまったのだ。
この件の後日譚――その後の二人どちらにも、蕎麦代を支払った記憶はない。
このあたり(これに続くエピソードも同様だが)をつづる岩城の(前出『森のうた』での)筆致は、まるで浅草軽演劇の活劇を観るがごときである。
蛇足ながら……こうした岩城の才覚を前出の助川敏弥さんに尋ねると、「岩城があのような筆達者だったとは、芸大時代のつき合いでは露とも感じなかった」と述べた。岩城もまた、直純同様にクラシック音楽家への固定概念――(ー)裃(かみしも)を着たジェントルとはかけ離れた「人間丸出し」の 素地をもっていたと言える。
直純と岩城の弥次・喜多道中はまだ続く――。

これは直純単独だが、彼の特技に無賃乗車があった。
駅の改札口を入るときも、出るときも、「オッ」と威勢よく怒鳴って抜ける(当時の改札は自動装置ではなく、駅員が控えて一枚一枚切符を切っていた)。無賃だからもちろん切符はもっていない。切符切りの改札員に呼び止められたときは、ふり向きざまにゴジラのごとく「ギャオーッ」と叫んで、さっと走り逃げる。「どうゆうつもりでやっているんだ?」と岩城が糺(ただ)すと、「アレヨ、無心の極意ヨ」と、直純が答えた――と岩城はつづる。

当時岩城は、学業のかたわらパーカショニストとして指揮者近衛秀麿が率いる近衛管弦楽団で稼いでいた。その大阪公演に直純が「オレもいく」と勝手についてきて、十日間を岩城および楽団と共に過ごした。
交通手段は「特急つばめ」であったが(その当時新幹線はなかった)、岩城はちゃんと三等車の切符(当時特急には一等、二等、三等の三クラスがあった)を買ったが、直純は例によって無賃乗車のうえに一等車でふんぞり返った。車掌に怪しまれ、とたんに岩城と共謀してとった行動が、長い列車内をタテ前後に逃げまくる例の陽動作戦。まんまと車掌をまいてしまった。
無賃乗車プラス陽動作戦だが、この旅ではさらに付録がつく。大指揮者、近衛秀麿センセイの歓心を買うための大物プレート盗みである。
近衛秀麿は、指揮界の大御所でありながら妙な趣味(・・)を誇っていた。大物プレートの盗みと収集である。好みは、国電(現JR)の客車についている特急「つばめ」や「さくら」などのプレート。本人が列車のトイレの窓を下げて盗みもしたが、楽団員にも頼み、盗んでもっていくと、ほうびの小遣いがもらえたという。よい小遣いとなったのが、当時内幸町にあったNHKの様々な表示板で、「ホール入口」などは特価であったというのだから、呆れる。
岩城が師の歓心を買うためにたばこ屋の看板をもっていったときだ。褒められると思ったら、逆に、静かに諭(さと)されたのだった。「零細企業をいじめてはいけない! でっかいところのを盗んでいらっしゃいましよ」さすがは千数百年続いたお公家さんの血をひく口調である。「デパートのアドバルーンとか、若者は夢を持ってくださいましよ」(前出『森のうた』)
このことを思い出したのか、この旅の最後、帰京する前の晩の真夜中に、二人は一時間かけて縦二メートル、横三十センチほどの「毎日新聞社」の看板を盗み、新聞紙でぐるぐる巻きにして、楽団員全員が帰京で集合した大阪駅にたどり着いた。異様な大きさに楽団員が口々に尋ねた。「それ、一体なんだ?」二人が得意げに新聞紙を解いたのが運のつきだった。楽団の責任者が顔色を変えた。「トンデモナイ! 返してこい!」

モグリとタダ聴きも、二人の得意手であった。
モグリとは、来日著名指揮者のリハーサルや本番などに際して、会場やコンサートホールの舞台裏に忍び込み(モグリ)、そこから活路を見出して聴くことである。モグルのであるから、当然タダ聴き。
この手法で目的を果たしたのが、ヨーロッパの第一級の指揮者の戦後初来日のとなった、フランスのジャン・マルティノン指揮によるNHK交響楽団の演奏。会場は舞台裏を知り尽くしていた日比谷公会堂。この時二人は、みごとに裏方の目をまいて、オーケストラ楽員が陣どる棚台の最上段、金管楽器奏者の真下にモグリ、窮屈な姿勢のままで休憩時間にも耐え、ドビュシーの『牧神の午後への前奏曲』とベルリオーズの『幻想交響曲』を聴き抜いた。
二人には不文律があった。スポンサーのいない貧乏オーケストラの場合はちゃんと切符を買って入るが、「体制の権化への反抗」と称し、「日本一のオーケストラ、NHK交響楽団の本番には切符を買わずモグル!」のである。
そのN響を初来日のヘルベルト・フォン・カラヤンが振る好機がめぐってきたときは、リハーサルの際のN響練習場でのモグリには失敗したが、来日最後の演目となった『第九』ではみごとに目的を果たした。
N響の公演でさんざんモグった二人であるから、当然ながらN響専属の裏方の親分にマークされていた。二人は彼を大将と渾名(あだな)した。大将にとって二人は超危険人物である。会場はマルティノン指揮の時と同じ日比谷公会堂。出演合唱団にまぎれて裏口を無事突破した、直純は図に乗って「アイツ(カラヤン)の顔を見てやろうじゃねぇか」と呟いてズカズカとカラヤンの控室に近づき、その扉を開けてカラヤン本人相対したまではよかったが、大将に肩を掴まれた。御用となりかかったところで、またしても直純と岩城による陽動作戦。二人と大将とのイタチごっこは、楽屋から会場二階、三階にまで及び、大将が汗だくとなったところで開演のベル。大将は捨てゼリフを残して楽屋(職務)へ踝(くびす)を返し、チケット完売(満席)ゆえに、二人は二階の左側、カラヤンがよく見える階段に尻を落として、その夜の『第九』を堪能しきったのである。

穏便に言えば天衣無縫。トムソーヤの冒険やハックルベリーの冒険を想起させる。無賃乗車がそうであったように、全体として岩城は直純のペースに付き合わされ、引きずられていたことは否めない。友情という名の下のやりたい放題。しかしながら彼らは学生と言えども大人である。
直純にしろ岩城にしろ、もちろん近衛秀麿にしろ、その行状は今では考えられない狼藉(ろうぜき)でありアンモラルである。軽ではあっても犯罪、あるいは犯罪すれすれであった。しかしながらこの時代あたりまで、野心に燃える若い男どもの大半は今で言う肉食系であり、草食系やイケメンであったりすれば(少なくとも男仲間からは)バカにされ、軽んじられたものである。時代をさかのぼれば、その傾向はさらに著しい。
例えば、明治維新およびそれ以降の文明・文化最大級の先覚者とされる福沢諭吉は、手に負えない悪ガキでもあった。蘭学習得に励む大阪時代に、川に浮かべた船の上で芸者遊びをする者たちに、橋の上から皿を投げつけた。たまたま三味線にあたって皮が打ち抜かれただけですんだが、頭にあたって相手が死んだりしたら過失致死罪、諭吉の人生はそれまでだったろう。そうしたワルぶりは、『福翁自伝』のあちこちに登場する。
もちろん、単なるワル、ワル乗りばかりの二人であったら、後の二人はいない。

直純と岩城には共通の親友がいた。前記の、直純が作曲科で同級だった助川敏弥である。
助川は大学在学中に作曲、応募した作品が、昭和三十一年に「日本音楽コンクール作曲部門」で第一位を受賞し、それから間もない昭和三十五年に、『オーケストラのためのパルティータ』で文部省芸術祭奨励賞を受賞している。彼は二人とはまったく性格を異とした、真面目ひと筋の作曲の徒であった。
彼の家は、父が会社員という普通の家庭であり、家にあるのはオルガンだけという音楽環境だったが、兄弟姉妹全員が大のクラシック音楽ファンであったことが幸いして、作曲の道を目指すようになった。
「当時の札幌は恵まれていましてね、疎開で東京を逃れてきた立派な先生がかなり住んでいましたから、第一級の室内楽を耳にすることができたんです」
家族の応援もあって、上京した助川はとりあえず国立音楽大学の付属高校に編入して芸大を目指し、合格した。
入学後の暮らしは直純とは違って、実家からのわずかばかりの仕送りでのやりくりする質素第一の生活だった。直純の紹介で、直純の師匠であった渡辺浦人のスタジオに間借りしていた。一階はスタジオだが、住まいはその上の屋根裏部屋、ピアノもなにもないわずか三畳一間だった。屋根の斜傾の下の部屋だったから、部屋の片隅は中腰となる。木造だから、パリの屋根裏部屋のようにも気どれない。風呂は近くの銭湯。近くには学習院大学など近隣の学生がたむろする喫茶店があり、ビンボウを自認する助川は、ツケでコーヒーが飲める優遇を受けていた。

その三畳で明けても暮れても五線紙に向かっていた助川だったが、前ぶれもなく、勝手気ままにその一間に押しかけて、口角泡を飛ばして議論はする、泊っていく……ということをくり返していたのが、岩城と直純だった。
遊びに呆け、稼ぎに呆け、もちろん音楽に呆けての三畳参りの二人だったが、数宿数飯の義理を感じてか、助川の寛容に頭を下げてか、彼が取り組む作品のためのスコアの五線引きを買って出たり、「ここはこう書いた方がイイ――」など、名アドバイザーとなったり、寝食を忘れてスコアの清書を手伝ってくれたこともあったという。
この三畳に押しかけたのは、直純と岩城ばかりではなかった。駅に近かったこともあってか、作曲の眞鍋理一郎、広瀬量平、中村茂隆、高橋悠治、ピアノの米谷治郎、フジコ(当時は、大月)・ヘミング……など。
助川さんは、ウェブサイトでの回想記で次のように書いている。
「私は彼らの溜まり場になり、彼らは家主である私をまったく無視して勝手にあがりこみ、勝手に議論しては引き上げ、入れ替わって別な連中が入場するという有様だった。時に、朝、まだ私が寝ているのに、枕元で議論を始める手合いもいました」(原文のまま)

なにやら南こうせつの『神田川』の世界を彷彿とさせる。芸大生と言っても、誰もがまがいもなく青春真っただ中だったのだ。
助川さんが、こうつけ加える。
「言ってみれば、旧制高校生の気風そのままでしたね」
要するに、バンカラを気取りつつも、互いに分け隔てなく、遠慮なく、しかも人情も汗もたっぷりだったのだ。
「今でもそうだと思うけど、同じ音楽という道の同志、特に芸大は先輩、後輩の仲がよく、結束は硬く、互いによく助け合っていました」
さらに――
「学生時代の友情美談はたくさんありますが、重要なことは、私たちは酒を飲まなかったことです。いま考えると不思議です。音楽の議論ばかりに熱中していました。酒が入って酔っぱらえば、貴重な時間が失われます。
私ばかりが勉強一筋だったわけではなく、当時の芸大生は皆、大変な努力家でした。直純君も岩城君も同様。寝ても、覚めても、歩いていても、彼らの頭の中には楽譜とスコアが充満していて……ですから、顔を合わせればどの曲のどこをどうするか! という議論になるんです。私の部屋で家主の私を差し置き、血相を変えて議論していたのもそうした次第だったからです」
芸大生とは――質実剛健の学生集団でもあった。

努力の幸運は、まず岩城宏之にめぐってきた。岩城の正科はあくまで打楽器科であり、指揮科は副科であったが、ある日突然、NHK交響楽団に呼ばれたのだ。 「指揮研究生にならないか」という要請であった。そもそも単位の足りなかった彼は、大学を泣く泣く中退(前記)して、その要請に応じた。そして後には、本人が(正しくは直純と共に)「体制の権化」と断じていたそのNHK交響楽団の正指揮者にまで昇り詰めた。
指揮者渡辺暁雄の寵愛を一身に受けていた山本直純も、指揮者としての幸運に恵まれた。在学中から日本フィルハーモニー交響楽団などを指揮するようになったからだ。

好きなように書かせる教授の下で

では、同じ芸大生である正美および周辺の女子たちの大学生活は、どうであったか?
「――そこは女、私たちのヤンチャといっても、皆で銀座にくり出す程度のことでした」
と語るのは、前出の村上さんだ。
男子の品定めではしゃぐくらいのことはあったろうが、もっぱらそれぞれの専門の学習に励んでいたのが、女子芸大生だったようだ。
正美も、もちろんその一人。
「正美さんは直観力にすぐれていらして、長谷川良夫先生の門下となったのが幸いしていたようです」
と話すのは、同期で作曲科へ入学し、正美と卒業後も親しくつき合い、現在も作曲家として活躍する田中友子さんだ。
「同期と言っても、正美さんが習ったのは長谷川良夫先生、私や直純さんが習ったのは池内友次郎先生。
それまで学内の作曲手法はドイツ系主流でしたが、池内先生はフランス系の作曲手法を初めてもち込み、学内にその潮流を生んだ功績者です。厳しいコンセルヴァトワール方式と言いますか、無駄を省いたテクニック方式と言ますか、アルチザン(職人)的、実践的な和声、作曲法を徹底的に訓練してくださいました。
正美さんが習った長谷川先生はドイツ系でしたが、生徒に自由に、書きたいものを書かせる先生でした。それで、正美さんは、オーケストラ曲や室内楽曲をどんどんお書きになっていました。
私がすごく良い曲だと思ったのが、後にお書きになった『交響曲第一番 ジーザス・クライスト』です。オーケストレーションがみごとでした。楽譜だけを見ると素人っぽいんですが、それでいいんだと私は思いました。長谷川先生に習った成果ですね。直純さんや私ではけっしてあゝは書けません。
池内先生は作曲術は書体術だとおっしゃって、余分な和音や音符はどんどん削られますから。音楽には型があるということですね。一方の長谷川先生の作曲観は、哲学的で、メタフィジカルなものでしたから、エキセントリックな正美さんに合っていたんだと思います」
入学したての頃の正美は、スマートでとても可愛かったという。事実その当時、実業家(オリンピック・レストランの創業者一家)の娘ながら作曲家を目指す女性として、『毎日グラフ』の表紙を飾ったこともある。
一方で「末娘で、お父様から目いっぱいかわいがられて育ったからでしょうか――」と田中さんが判断するように、エキセントリックなうえに我儘(わがまま)で、まわりの女性たちは一歩離れて彼女を見ていたようだ。
「私はなぜか、正美さんに気に入られました。私が凡人で、常識人だったから、ウマがあったのでしょうか。私にとっても彼女は居心地が良かったんです。彼女の才能が心地よかったのかもしれませんが」
作曲家としては? と、質問すると――
「世間が評価すれば、もっともっと凄い作品が書けたんでしょうが、人に迎合することができない人でした。プロとしてやっていくためには、不幸な気質ですよね」

同期で、同じ長谷川ゼミで作曲を学んだ五十嵐直代さん(テノール歌手・五十嵐喜芳夫人)も、正美の生来の才能を高く評価する。
「非常に才能があった方で、ピアノ曲など、さーっと書いていました。ただ……とても変っていて、その場その場でおっしゃることはとても正しく、純粋なのですが、クルクル変わるところがありました。ですから、私は言葉を選んで、考え考え彼女と話していました。才能のある人は普通の人とは違うんだなと思いつつ……」

正義感が強いのに、猜疑心や煩悩も強く、そうした自分の内でただひたすら純音楽の創作を沸々とたぎらしていた岡本正美。
戦後、世界が注目する多くのすぐれた作曲家を輩出し続けてきた日本のクラシック音楽界であるが、現代音楽というものの宿命か、そうした作曲家にしても、初演はもとより度々演奏される機会は非常に限られる。特にシンフォニーやオペラなど編成も費用もかさむ大曲がそうであるのに、後に記する正美の作曲の本懐はそこにあった。であるから、作曲家には作曲に専念し切るエネルギーと別のもう一つの回路と能力とが不可欠となる。音楽は“外”へと放たれてこそ音楽である。そのために奏者や指揮者など多くの賛同者、協力者を必要とする以上、彼らとスムーズに渡り合えるコラボレーション能力と、自らをそこへ向けて駆り立てることのできる自己プロデュース能力とが備わっていなければならない。
やがて結婚へといたる岡本正美であるが、彼女にとって結婚とその後の生活は、「作曲プラスα……」の点でどうであったのだろうか?

同窓の女性たちには一歩置かれていた正美であったが、学年が進むごとに、男子学生が一目置くようになっていたようだ。
助川敏弥さんが語る。
「終戦後、帰国できない兵士たちがポルネシヤの無人島、アナタハン島で暮らし、一人の女性をめぐって彼らが争奪戦をくり広げる映画がありましたが、卒業の頃の正美さんはそうした女王蜂的な雰囲気を醸していました」

▼恋の痛み

じつのところ、岡本正美には入学前からの恋人がいた。共に芸大の作曲科を目指し、同じ年に合格した彼氏である。仮にXとしておこう。
Xは、山本直純とは別の意味でもの凄い才能を発揮していた。暗譜力にすぐれ、どのようなピアノ曲も楽譜なしですぐに弾けた。和声や対位法でも抜群の成績だったという。
しかしながら入学後の二人の蜜月はそう長くはなかったようだ。と言うのも、Xは二年次に芸大を中退し、フランスに渡り、パリ音楽院へ入学したからだ。以後、ヨーロッパに住み続け、前衛音楽の旗手とされる作曲家になった。
彼の芸大中退が、二人を分けることになったが、その前から二人の関係は冷えていたようだ。優等生特有の冷然としたところが彼にはあり、正美の熱も冷めていたようだ。
後々、正美本人がこう呟いている。
「冷たいところがあった人ですから――」
しかし、そう易々(やすやす)と消えないのが愛や恋の傷――と言ってしまえばそれまでだが、原因がX側にあったのも真実であった。それについては後述する。

同じ頃、直純は身をよじるほどの失恋をしている。その経緯(いきさつ)も、前出の岩城の『森のうた』に詳しい。以下はその要約である。
直純が恋の坩堝にはまった相手は、同学年のピアノ科の「女王」三羽ガラスと言われた一人、いつも黒いマントにすっぽり身を包んでいたグレコ風スタイルの美女であった。文学少女でもあり、当時最先端の思潮であった実存主義に凝り、新宿のシャンソン喫茶に入りびたり、他の大学の男子学生たちに囲まれることを良しとした女王蜂であった。
直純はこの女王にトコトン仕えた。大学の行き帰りで必ずカバンをもつ。キャッスルで彼女が「紅茶――」と言えば、すぐにカウンターに走る。
例によって直純と岩城が助川の三畳に屯(たむろ)っているとき、二人が そそのかしたのか? 本人が決意したのか?……直純はついに行動に出た。
二人の励ましに「ヨッシャ!」と勇んで三畳を背にした彼は、女王の住む豪邸に向かい、玄関の前に立った。何度もくり返した告白の念仏を口の中で唱えつつ呼び鈴を押したが、あいにくの留守。帰宅を待ちかまえるために玄関前をウロウロすることになり、近所の人に怪しまれ、犬に吠えられて、仕方なく家の前のゴミ箱(当時、道のあちこちに蓋のついた木製のゴミ箱があった)に隠れた。不運にも、彼が隠れているそのゴミ箱に、近所の誰かが塵屑をぶち込んだ。彼はそれに耐えて身を潜め続けた。
やがて女王は帰宅し、衣替えして出かけるとき、ついに直純がそのゴミ箱から飛び出し、彼女を追った。女王はバス停でバスに乗った。数歩遅れたゴミの塊は乗りそこねた。だが、諦めない。一停留場を全力疾走し、追いつき、バスに飛び込んだ。で、彼が告白を言葉にすると、痛烈な言葉が浴びせられた。「クサイわねぇ――」という一言と、「なによ、下男のくせして!」
結果、助川と岩城がゴロ寝するボロ下宿がゆれた。三畳の下のスタジオから嗚咽の声が漏れ聴こえた。直純だ。床中を塵だらけにして転げまわっていたからだ。
「悲しいヨー、苦しいヨー」

▼棒振り三昧(ざんまい)、大成功!

直純と岩城が仕立て上げた学響(学友会交響楽団)は、順当に続いていた。二年目に入った時点で定期演奏会を計四回。ピアノやヴァイオリンのコンチェルトもこなした。作曲科の学生の作品も指揮した。秋の芸術祭では特別演奏会を行った。
二度目の芸術祭を迎えるに際して、直純が大胆な発案をした。当時世界中でセンセーショナルとなっていたシスタコーヴィチのオラトリオ『森のうた』を、ストラヴィンスキーの『兵士の物語』と抱き合わせで上演しようというのだ。
岩城は「やられた!」と思ったという。
『森のうた』は歌のソリスト二人、大合唱つきの大曲であり、『兵士の物語』は小編成ながらも変拍子が延々と続く指揮者にとっても演奏者にとっても複雑きわまる難曲であるが、どちらもパーカッションが重要となる。これまでの演奏会では、曲によって指揮を分担していた二人であるが、この二曲をやるとなっては、岩城はパーカッションを担当せねばならず(岩城の正科は打楽器科だった)、結果二曲とも直純が振ることになった。岩城が「やられた!」と思ったのは、こうしたことによる。
練習が佳境に入った頃の様子を、助川敏弥は、自身のウェブサイトで次のように回想している。

――指揮の技巧の極致を発揮する「兵士」と大編成を包括指揮する「森の歌」の両方で彼は自身の能力の最大限の展開を実現しました。奏楽堂で「兵士の物語」の練習をしている時、客席にいた私の傍らに岩城がそっとやって来て「畜生、いい棒だなぁ!」とささやいたことがありました。ライバルが称賛せざるを得ないほど直純の指揮はみごとなもので、稀有の変拍子を、余裕すら以てみごとに振り分けていく彼の棒さばきは、美しくさえある名人芸といっていいものでした。ご存じのように、のちにポピュラーな名曲を指揮して人を楽しませるようになった人ですが、実は彼は、最高水準の専門技術を身に付けた人だったことを知って頂きたいのです。 千葉周作の道場みたいな斎藤教室の筆頭指南役として小澤征爾君より上だったのですから。指揮だけでなく、この時の各パートの演奏ぶりもまた、当時の日本楽界最高の水準のものでした――(原文のまま)

特に『森のうた』の前評判が凄かった。築後百年も経つオンボロ奏楽堂の舞台にオーケストラと合唱団合計三百人が乗り、美術部の学生を含めた全学生がこの上演に殺到し、客席はすべて埋まり、それ以上の人数が中に入ることもできずに奏楽堂の前庭を埋めつくしたのだ。
『森のうた』は、入り切れなかった人を入れて、しかも立ち見を含めて詰めるだけ詰め込み、予定外の二回公演となった。
「ブラボー!」、「ブラボー!」、「ブラボー!」……。
助川は、前記に続いて記す。

――最終楽章でファンファーレが加わった時の大音響のすさまじかったこと。あの狭い奏楽堂にこれだけの金管群の最強音が響いたのですから、奏楽堂の屋根が吹っ飛ぶかと思われました。こういう大音響は騒音とは違い、人を興奮、陶酔、熱狂させるもので、最後の音が終わると会場は異様な熱気のるつぼと化しました――(原文のまま)

大成功! に加えて、この上演に関連した後日譚がある。
『森のうた』は、この上演の後にプロのオーケストラによっても初演された。 NHK交響楽団と東京交響楽団である。
東京交響楽団の上演は、直純指揮の翌年である。指揮は上田仁であったが、その練習指揮を務めたのが、直純であった。

この芸術祭での大成功を、無論正美は目にしていた。
「凄い才能のある人!――」
と思ったと、後々語っている。
ただしこの頃、直純は例のピアノ科の女王に夢中であり、正美はXとの別れの傷をまだ負っていた――。

 

Ⅲ――蜜月の時 

  いつから岡本正美と山本直純とが恋人同士となり、結婚に向けていっきに走り出したのかについては、同期の仲間たちから訊き出すことはできなかった。二人が結ばれるであろうことを、誰もイメージできなかったということでもある。つまるところ、ミステリーゾーンである。
しかしながら二人の側に立てば、まったく根も葉もなかったかというと、それは違う。冒頭の序の稿で描いたように、共に一浪のあとの二度目の受験の際に、奏楽堂近くで二人は瞬時言葉を交わし、直純はその時の彼女の全像と彼女の羽織る緋色のオーバーコートを強烈に目に焼きつけている。正美は後に「変な人だと思った」と、彼に語っている。
その時のそれぞれの印象に違いはあったとしても、二人に共通するのは、どちらも「結婚しようとは夢にも思わなかった」ということである。 

  当時の芸大生に共通するのは(いまも同様かもしれないが)、修練に人一倍手間ひまをかけ、自分が真に無我夢中になれる学科に進むことができただけに、彼ら彼女らの向上心、好学心は、「大学くらい出ていなければ……」という通常の大学生とは比べものにならないくらい強く、しっかりしたものであったということだ。互いの専攻が同種であっても異種であっても、言葉の真の意味での切磋琢磨、相互扶助……そうした美しい言葉が通用していたのが、当時の芸大の学生たちだったと言える。いわば、いい意味でのエリート意識、貴族的気質が充満していたということである。
昭和二十七年前後入学の彼ら彼女らは、すでに八十歳近くであるが、皆、異口同音に当時の美風を口にする――前途に希望があったから楽天的だった、被害者意識がないから他人に悪意をもたないし、意地悪しない。つまり、学内を闊歩するのは、若い善男善女たち。いい風景である。

▼日本アルプス登攀(とうはん) 

  善女・正美と、善男・直純とが、ごく一般的なお友達となったのは、入学試験のわずか半年後、互いに一年生の夏であった。誰が発案したのか、作曲科の一年生を主にした芸大男子四名、女子一名、他校の女子大生二名による「日本アルプス登攀」の時である。その中に直純がいて、正美がいて、直純の親友となる助川敏弥がいて、正美の恋人であるXもいた。
コースは燕岳から槍が岳への縦走、それもテントをかついでの本格的なものだった。途中雨に見舞われ、二日ほど山小屋に閉じ込められた。事故が起きたのは、晴れて下山、槍沢の雪渓を尻の下に尻セードを敷いて滑り降りる時だった。
まず直純が先陣を切り、続く他の者を下で待ち受けた。下にはクレバスがあり、水が川となってゴーゴーと流れていた。そこに落ちれば、おそらく助からない――。
正美の滑走が最後となり、おびえたのが災いとなった。真っ逆さまに滑落したからだ。途中で助川が止めようとしたが逆に跳ね飛ばされた。ついにクレバスの手前まで転げてきたとき、直純が体あたりで止めた。止まらなかった場合のその先は誰も断定できないが、とにもかくにも、直純は正美の命の恩人となったのだった。 

正美にとって、念願の芸大合格後間もない楽しいはずのこのグループ登攀が、そうでもなくなったのは、この滑落によるものばかりとは言えなかった。理由はこうだ。悪天候で全員が山小屋に閉じ込められた際に、Xと他校の女子大生の一人とがデキてしまったからだ。他の者はほぼ知っていたらしい。正美や直純がそのことをシカと知ったのか否かについては、今となっては確かめようもないが、もし正美がその事実に気づいていたとしたら、雪渓での彼女の滑落は、雪渓への単なるおびえ――それだけではなかったはずだ。突き付けられた事実による「心、そこにあらず」状態であったのだとも解釈できる。 後に、Xに対して正美が「冷たいところがあった人ですから――」(前記)と呟いたのは、呟き以上の失意と恨みをそこに閉じ込めようとしたのかもしれない。 

▼お友達から恋人同士へ 

  そうしたことがありながらも、正美および直純、Xたちとの交友は、その後も続いた。西麻布あたりにあったXの家を溜まり場としたり、奥沢の岡本正美の家に集まってピアノの即興演奏に興じたり……しかし、正美と直純とはまだまだ単なるお友達同士にすぎなかった。
正美にとっては、幸いにして……とでも言うか、転機は訪れた。二年次でのXの芸大中退と、それに続くパリ音楽院への入学である。
正美の青春は終わったのだろうか――。

事態の急変は、正美の卒業の日であった。「この日を過ぎたらもう彼女との縁はなくなる――」そう思った直純が、つき合ってくれるよう正式に申し込んだのだ。途中で作曲科から指揮科に移籍した彼は、同期の者たちよりさらに二年長く芸大に通わなければならなかったためでもある。
やはり直純は、入学試験時での瞬時の彼女との出会いを忘れ得なかったのだ。滑落する彼女を受け止めた時の彼女の体温を覚え続けていたのかもしれない。無論、正美のXとの決裂と別離も相応に知っていたであろう。
  デートの初日、食事の後、正美は強引に唇を吸われた。「一年間逃げまわっていましたが、彼の純粋一途、体あたり戦法に勝てませんでした」と、正美は後の雑誌インタビューで話している。
東京芸術大学の学部は、音楽学部と美術学部が互いに道路を隔てて向き合う。デートの待ち合わせは美術学部の藤棚の下、音楽学部を離れての秘所であった。多分人眼を避けるための直純の設定であろう。直純にとっては授業よりも正美! よくサボってはそこで落ち合い、上野の鈴本演芸場で笑い、御徒町、後楽園、護国寺方面へ流れ、よく歩き、よく食べ、よく映画を観る日々を重ねた。
真面目に授業に出たのは一年の時だけ、相変わらずアルバイトに明け暮れていた直純は、映画の仕事で京都に滞在し、当時の学生の身では大金! 夢のような十万円を手にし、(当時の遠距離電話はバカ高であったにもかかわらず)東京にいる正美に五分おきに電話して、「結婚指輪を買っていいか」という攻勢をくり返した。 

男女のどちらが先に相手に惚れるか――という図式からすると、正美と直純の場合は、火がついたのはあきらかに直純の方だった。では、なぜ正美は彼に心を開くようになったのか?
正美、直純、さらに長男純ノ介と同様に芸大を卒業して、現在チェリスト、指揮者として活躍する次男祐ノ介さんは、次のように語る。
「母は、とにもかくにもお嬢さんでした。父は一種無頼漢のような生活者でしたから、下町のラーメン屋、千切れそうな暖簾の居酒屋、屋台の夜泣きソバ屋……そうした所を連れまわし、母は見るもの、聞くもの、食べるものすべてが珍しく、初体験、いままでの自分の身のまわりとはまったく違う別世界――ということで、だんだん楽しく、面白くなって、父の世界にはまっていったんでしょうね。映画で言えば、『ローマの休日』のように」
正美がオードリー・ヘップバーン、直純がグリゴリー・ペックということになる。
そこまでくれば、恋は成就する。しかも正美は妊娠した。ならばと、結婚した二人であった。
結婚日は、昭和三十二年三月十日。仲人は渡辺浦人夫妻。あかね夫人は童話作家の傍ら喫茶店を経営しており、式場は店の奥の炬燵のある座敷。カタチよりも実をとったコタツ結婚であった。
正美、直純共に二十三歳、六年間芸大に居座り続けた直純が卒業を果たす前年の春、正美の父の誕生日でもあった。

▼「神田川」のごとく 

結婚当初は、テレビ放映の勃興期であった。昭和二十八年に開局したNHKテレビに続いて、初の民放として日本テレビも開局した。同局の実験放送の頃より、学生の身でありながら、直純は音楽スタッフの一員に加えられ、活躍した。劇伴の作曲はもとより、すぐれたピアノ即興奏者でもあった彼は、結婚当初、テレビ体操のピアノ伴奏で稼いでいた。
だが、二人の新婚生活は、目白のアパート、六畳一間からのスタートであった。米軍払い下げの折り畳み式のベットを見つけ出し、正美がベットに寝て、直純は床の畳に寝た。風呂は銭湯。まさしく、昭和五十年前後に流行った南こうせつの「神田川」の世界のようにつつましい。
が、それも一見。直純に映画音楽の仕事が入ると、六畳一間は修羅場と化した。直純が連れてきた作曲科の後輩たちで六畳が埋まった。徹夜での譜面書きだ。正美は慣れぬ食事の支度に身をやつし、押し入れの中での仮眠。アパートの共同炊事場は食器類の山となり、大家の文句が絶えない。
やむなく移ったのが多摩川園の賃貸住居だが、ここも住居とは言えないような四畳半二間。一間は畳。床敷きのもう一間にようやくピアノが置けたのが、進歩と言えた。
出産が近くなって、正美の両親、祐信とハルが手を尽くした。奥沢の母屋の裏の庭に、木造二階建ての二人の新居を建ててくれたのだ。長男純ノ介の誕生と前後して、二人はそこに移り住み、終生の住処となった。

▼同床同夢もつかの間? 

芸大を卒業した年の夏、結婚する前年の昭和三十一年七月四日、正美は、モダンダンサーとして後に一世を風靡(ふうび)するアキコ・カンダと仕事をしている。七演目の公演のうち――『二つのプレリュード』、『筏の上』、『タンゴ』の三つのピアノ曲を仕上げ、公演では正美本人が演奏した(サンケイホール)。
アキコ・カンダはこの公演の直後に渡米して、モダンダンスの開拓者であるマーサ・グラハムに弟子入りし(昭和三十一年)、同舞踏団のトップダンサーとなった。帰国後(昭和三十六年)アキコ・カンダダンスカンパニーを主宰し、日本のモダンダンスの草分け的存在となり、芸術祭大賞、芸術選奨文部大臣賞、紫綬褒章などを受賞している。
ここに、大卒後の作曲家としての正美の一つの姿がある。外との回路による創作活動に一歩踏み出しているからだ。しかしながらほどなく結婚し、家庭をもつ。女にとって結婚とは、母となることでもある。母となれば、創作活動にとって不利となることは自明だ。
すでにこの時期、直純は大学に籍を置きながらも、プロの音楽家として八面六臂の活躍をしていた。テレビの勃興期、映画の全盛期と重なり、テレビの劇伴、映画音楽の作曲、指揮、録音に追われ、浪人時代からの作曲家渡辺浦人のカバンもち(雑用、編曲、指揮等)としての仕事も続いていた。
すべては彼の有する才能に尽きた。時代が、商業音楽が、彼の才能を「待っていました!」という塩梅(あんばい)だったのだ。
映画では、日活の黄金時代と重なった。当時のヒーロー、石原裕次郎、小林旭、宍戸錠、赤木圭一郎などと仕事をしている。日活にとどまらず、東宝、新東宝、大映、松竹とも仕事をしていた。松竹と大映の撮影所は京都。京都での撮影のときは、一、二週間京都での泊まり込みとなった。
テレビでも、直純はよい仕事をしている。TBSの芸術祭参加ドラマの音楽を二本担当した。その内の一本は、当時大いに話題になったフランキ―堺主演による『私は貝になりたい』である。脚本は当時売り出し中の寺山修司だった。もう一本は特殊撮影による『キュウ』。この時は、森繁久弥と親しく仕事をしている。
二十代にして直純は、引く手あまた、生き馬の目を抜く商業音楽の世界にあって、無くてはならぬ音楽家、作曲家となっていた。当然ながら、正美はそうした夫を頼もしく、自慢にも思っていたに違いない。だが……正美も作曲家であることを自分の人生としていた。同じ道を究めようとしているライバル同士が同じ屋根の下に住む。まだ回路のない彼女を、直純は見て見ぬふりをしていたわけではない。作曲家としての正美の才能を充分認めていた直純は、時に彼女へ仕事をまわすようなこともあったようだ。ゆえに二人は、外に向けてオシドリ夫婦のようにふる舞うこともできた。

しかしながら結婚の翌年昭和三十三年、正美は長男を出産し、五年後の昭和三十八年に次男を出産する。幸い父母とは廊下続きの棟同士で、育児の半分は母のハルが担ってくれたとは言え、母親は彼女である。もとよりわがままいっぱい、作曲の勉学それのみできた彼女に、家事や育児の心構えも準備もなかった。育った家は女ばかり、空気はのんびりしたものであった。それが百八十度変わる。二児が成長するにつれて、男児の激しさ、ヤンチャ、自己主張に圧倒される日々となった。
子どもは二人だけではなかった。もう一人は、直純である。彼こそは時間に無頓着で、家を出ると鉄砲玉、仕事、マージャン、覚えた飲酒も加わり、毎日が午前様。時に仕事仲間、友人たちを家にドッと連れ込む。
正美にとってはたまらない寂しさ、ショックの連続だったのは、否めない。
当時の雑誌のインタビューに、正美はこう応えている。
「作曲のインスピレーションが浮かんでも、ただちにピアノに向かう時間さえなかった」
次第にヒートアップする、犬も食わない夫婦喧嘩が、この頃から勃発するようになった。

 

Ⅳ―― 時の人「正美」

  二人は三十代に突入していた。正美から見れば“鬼は外”の鬼である直純は、ますます“外”で大活躍の人となっていた。
直純に、ついに天下のNHKテレビから声がかかった。音楽バラエティショウ『音楽の花ひらく』の放映(昭和四十年)が開始され、派手なタキシードを着たタレント指揮者として登場した彼の名は、“ヘンな指揮者”という代名詞と共に全国区となった。チンドン屋と揶揄(やゆ)されても直純はひるむことなく、芸大卒業の仲間たち、同世代の音楽人の誰にも抜きん出て「クラシック音楽の大衆化と底辺の拡大」の使徒と化してひた走った。とりわけ大手菓子メーカーの大型チョコレートのCM、気球に乗ってタクトを振る「大きいことはいいことだ」は、ウケにウケ、全国の子供たちのアイドル的存在にまでなった。
昭和四十二年から五年間にわたった、自主企画による大入満員続きの『ウィット・コンサート』(東京文化会館大ホール)も、彼にとっての音楽の大衆化の代表格である。

 映画の分野でも彼の名を決定づける仕事がスタートした。当初はフジテレビで放映され(昭和四十一年)、次いで映画シリーズとして他に類のないロングシリーズとなった松竹映画の『男はつらいよ』(渥美清主演、山田洋次脚本・監督/昭和四十四年~平成七年/全四十九作品)である。テレビ放映のオンエアーが迫る最中、「私、生まれも育ちも葛飾柴又です 帝釈天でうぶ湯を使い 姓は車 名は寅次郎 人呼んでフーテンの寅と発します」という名ゼリフに続く詞をいきなり渡された直純は、ステージの傍のピアノの上で、国民的メロディー、“日本のこころ”とさえ言われたあのテーマソングを書きあげた。わずか三十分で。まさに、モーツァルト的速筆である。しかもそこは直純! 演歌風の詞(作詞、星野哲郎)とクラシック筆法とを、みごとに合体し切った。

 こうした直純の進展を、正美はどう見ていたのだろう?
まずは、妻としての気持ちと目線だ。彼女は、当時の雑誌取材に次のように答えている。
結婚については――「家庭的に恵まれず(父直忠の家系は岡本家以上に富裕あったが、直忠の旺盛な音楽活動に戦中戦後の混乱が加わって、直純の育ちざかり以降、家の経済は疲弊の一途であった)、中学の時からアルバイト、そんな彼を幸せにしてあげたい」(カッコ内、著者加筆)であり、結婚後については――「私は彼を幸せにしてあげたいと思って結婚したので、あくまでもそうやっている……一般に女性はこの年くらいになると子供に身を入れたり、夫を呪ったりして生きていますが、私はなおかつこの人を愛し、女の愛の姿をつらぬきます」、また「直純は仕事のために家庭を犠牲にするタイプ。私は家庭のために仕事を犠牲にするタイプ。だから、もっているんでしょう」と、応えている。
最後に「……でしょう」と結んでいるのは、正美の心のゆれであり、葛藤でもある。

 二人に共通しているのは、共に“陽性”の気質であったことだ。陽性とは、発散力を有する者であるということ。多少のことがあっても、自分の気分さえよければ、大目に見過ごすことができる。陰を陽に代える力もある。芸術家に不可欠な要素でもある。ただし、陽と陽とはプラスの電極同士ということになる――。
陽と陽とで一見ロマンチックな者同士に見えるが、いつ火花を散らすかという危険性をつねに孕(はら)んでいる二人であった。特に正美の側が危険だった。なぜなら“犠牲”の意識がつねに胸にあったからだ。危険とは、犠牲の均衡状態はいつ破れてもおかしくない法則下にあることだ。しかも正美には、自分の正義、純粋性に固まる――というもう一つの気質があった。

▼大衆路線をひた走る

 もう一つ重要なのは、二人の音楽家としての資質と開花である。こちらは大きく違う。違うようになってしまったと言うべきか――。
結論を言えば、直純の指揮や作曲がクラシック音楽の大衆化に向かったのに対して、正美の作曲における方向は、あくまでも純音楽、これまでの本格的なクラシック音楽の延長線上であった。この違いは、年とともにはっきりとしていく――。

 指揮においても、作曲においても、いわば時代の寵児となってしまった直純は、その要請に応えようと、遮二(しゃに)無二(むに)走った。その要請とはクラシック音楽の大衆化であり、大衆化は直純のテーマであるだけでなく、時代の要請でもあった。
では、直純の音楽(指揮および作曲)は、大衆路線(商業ベース)のみなのかと言えば、けっしてそうではない。
例えば指揮。在学中の奏楽堂での『森のうた』の指揮は、まだセミプロの芸大生の奏者を率いて、しかもプロの指揮者をもってしてもかなわないレベルを見せつけた。その背景には、中学時代から薫陶(くんとう)を受けていた指揮者・斎藤秀雄の特訓がある。この斎藤門下の四天王の筆頭が直純であり、次が後に「世界のオザワ」となった小澤征爾であったが、直純が最晩年の頃、小澤は日本の指揮界の最長老である朝比奈隆とのテレビ対談で、次のように告白している。
「ボクは斎藤秀雄の門下生でしたが、じつのところ、じっさいに指揮の訓練をしてくれたのは、直純さんだったんです――」

 話は飛ぶが――直純が音楽の大衆化に向けてひた走り始めた一九六〇年代は、フランスを中心に「ポスト・モダン(近代)」の思想が流布し始めた時期である。これを背景に、日本の多くの論者によって、日本における西洋音楽の受容に焦点をあてた論旨が展開された。なんと言っても、日本にとって洋楽の歴史は浅い。その歪(ひずみ)は今日まで尾を引き、その一つに、日本におけるクラシック音楽とその他の音楽との乖離(かいり)が存在する。つまるところ、クラシック音楽は高級であり芸術そのものであり、対するその他の音楽は低級であり、ミーハ―であり……もちろん、そうではあるまいという論も含めて――。
しかしながら、ここから先が重要だ。つまり直純の音楽(指揮および作曲)は、高級対低級という常套的な対立軸から外れてしまっているという事実。言葉を換えれば双方を飲み込んでしまったのが直純であり、そこにじつは、特に高級側? から眺めた無理、ハラハラ、ドキドキ感があるのだが、そのようなこと、ご本人は知ったことではない。つまり、自身の才覚と体感と気分とその時々の本能にうながされて、斟酌(しんしゃく)なしのお咎(とが)めなしで、彼こそは、思うがままに自身の思う存分を生きたのである。
だが、彼のまわり――同僚、同世代の音楽人、妻の正美、長男で作曲家の純ノ介、次男でチェリストの祐ノ介などの多くが、“高級”族であった。
「あなたが本格的なクラシック曲を本格的に指揮すれば、世界一の指揮者になれる。だから――」
こう直純に説教したのは、次男・祐ノ介であった。直純がクラシック音楽の大衆化にさんざん身をやつし果てた頃である。もちろん本人は、それまでいくらでも本格的なクラシック曲を本格的に指揮してきた。小澤征爾と共に創設した新日本フィルハーモニーを率いての「オーケストラがやってきた」での指揮、百年続くボストン・ポップスに招かれての客演指揮……など。
だが、彼とつねに肌をすり合わせてきた高級族にとって、直純の高級とその他との混在が歯がゆくてならない。共に指揮者を目指した岩城宏之はNHK交響楽団の正指揮者となり、小澤征爾は世界狭しと飛びまわっている。
で、直純センセイ、次男の提言にうながされ、事の次第を理解して、次なるステップを目論んだ。
「ヨーシッ! と言って……オヤジが始めたのが、なんと、竣工したての大阪城ホールでの『一万人の第九コンサート』だった。分かっていない――」
大それた一万人……「大きいことはいいことだ」で時代の寵児に祭りあげられた残像から終生抜けられなかった、とも言える。
だが、そうした彼とて、純音楽の領域を捨てていたわけではない。

 三十代の頃の直純に話を戻そう。
この頃、映画、テレビ……その他の諸々に追われ続ける忙中(ぼうちゅう)閑(ひま)ならぬ忙中忙(ぼうちゅうぼう)の最中に、直純は、自宅の居間でウィスキーを片手、南京豆をボリボリ、純音楽の作曲としてはまことに不遜の態ながら、代表作品となる曲を書き上げている。寺山修司の作詞による合唱組曲『田園・わが愛』(昭和三十七年)だ。曲は「ふるさと」の詞に始まり、「わが田園」の詞で閉じる八曲構成。後々本人自らが「涙が出るほどに美しい」と述べているように、彼、一世一代のロマンチックで清廉(せいれん)な名曲である。
それに次ぐ代表作品は、国連に招かれての国連デーでの演奏作品である。作曲家は自らの回路を自ら獲得する! 国連の誕生日である十月二十四日の国連デーに、国連は毎年世界百数十ヵ国の代表を家族と共に招き、かつ各国持ちまわりのオーケストラの演奏を提供する。そこに着目した直純は、国連事務総長への斡旋を小澤征爾に頼み、自身は文化庁、文部省へ交渉し、時の総理大臣のところにも押しかけ、三年がかりで実現に漕ぎつけた。
テーマは直純が考え、曲をオムニバス形式の三部作『天・地・人』とした。〈天〉は安城慶、〈地〉は一柳慧の作曲、〈人〉を直純が作曲した。
和太鼓の演奏は天野宣、尺八横山勝也、謡が観世榮夫。曲は「序章」「除夜の鐘」「終曲」の三部構成、演奏は新日本フィルハーモニー交響楽団、指揮は小澤征爾という陣容で、昭和四十九(一九七四)年の十月二十四日、会場となった国連本部の会議場にて初演された。
和太鼓の迫力、掛け声をかけて太鼓を叩く珍しさ……直純の〈人〉では聴衆が総立ちとなり、熱烈な拍手を受け、直純は十一回も舞台に呼び出された。

 純音楽の領域でも、直純はりっぱな作品を残した。だが、そうした作品の数は、確かに少ない。その山本直純を幸と見るか、不幸と見るか――。

 直純は、妻正美の作曲への情熱を忘れていたわけではない。毎日のような午前様。しかもしっかりと酒を覚えた彼は、連日休むことなく続く仕事のストレスもあって、連日酒気帯び、酩酊での帰宅となった。
そうした罪滅ぼしもあったのだろう。ある日彼は、作曲家・岡本正美の代表作となる詞を持参して帰宅した。

▼『ねむの木の子守歌』で世にはばたく

 詞は、美智子皇后陛下、当時の美智子皇太子妃殿下が、高校生時代に作詞した作品であったのを、友人が発表して世に出て、NHKのプロデューサーを通して直純の手に渡ったのだった。この時点で、曲はつけられてなかった。詞は、ねむの木に託した母の子への愛情としてつづられていた。
詞を手にして、正美の日ごろの鬱憤(うっぷん)が晴れわたった。すでに妃殿下は同じ男児、二児の母であり、彼女も同様であったからでもあろう。
曲は女声三部合唱として仕あげられ、妃殿下の第二皇子、礼宮の誕生を祝して献上され(昭和四十年)、翌年レコードとして発売された。
岡本正美の名はたちまち世に知れることになった。
皇室との交流も始まった。
昭和四十二年、美智子妃殿下(当時)はこの曲にちなんで、『ねむの木賞』を設定した。自身の歌詞著作権を肢体不自由児事業振興のために下賜し、自らの意志を末永く刻むと共に、肢体不自由児施設、重症心身障害児施設、特別支援学校などに永年勤務し、障害児・者の日常生活指導などにたずさわり、優秀な成績をおさめている人に対してその労をねぎらい、今後の活躍を期するためである。この賞は、現在も続く。

 直純の大卒あたりから、彼の本格的指揮者としての領域で、その活動をプロデュースし続けてきたミリオンコンサート協会の小尾旭さんは、
「この一曲をもってしても、正美さんの名は日本の音楽史に永遠に残る」
と話す。
そのとおりであることは、合唱曲、独唱曲、オーケストラ伴奏……など、様々に編曲され、ソリスト、オペラ歌手などはもとより、ポピュラー歌手の愛唱曲としても、広く、末長く歌い継がれていることが示している。ちなみに、よく知られているところでは、ソプラノの鮫島有美子、女優の吉永小百合、歌手の梓みちよなどが歌っている。最近では、四十三年ぶりに、ニュージランドの歌姫、ヘイリーよるCDが発売され、話題となった。

 岡本正美が没して六年目となる平成二十一年は、天皇・皇后両陛下の成婚五十周年、即位二十周年の年であり、四月二十八日、それを記念してのコンサートがNHKホールで開催された。出演演奏者はいまや世界に名だたるハープの吉野直子、ピアノの中村紘子、ソプラノの佐藤しのぶ、テノールの佐野成宏、フルートの高木綾子、ヴァイオリンの神尾真由子。指揮は外山雄三、オーケストラはNHK交響楽団。曲目は、モーツァルトのフルートとハープのための協奏曲、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲、プッチーニのアリア、ドヴォルザークの歌曲、モーツァルトのピアノ協奏曲……などであったが、白眉は「中村紘子、佐藤しのぶ、NHK東京児童合唱団とN響による『ねむの木の子守歌』であった――」と、N響の機関誌「N響NEWS」が記している。

 沸々と作曲への意欲をたぎらせていた三十代、馬車馬のように外で走りまわる夫と、育ちざかりの男児二人を抱えた正美は、その屋根の下でもできる作曲を身に覚えた。その一つが奇しくも夫の手によってもたらされた美智子妃殿下の詞であったが、さらに、正美ならではの作曲へと続く――。

▼子たちとの密着『しつけ歌』

 正美にとって『ねむの木の子守歌』は、子供たちへの愛とぬくもりを作曲をつうじて自分自身に深く実感させることになった。
元々、風船のように外に飛び出し触れることもかなわぬ夫を抱えつつ、彼女の我が子への愛情は一点の曇りもなく、純粋で、寛容なものであった。
『ねむの木の子守歌』の発表以降、にわかに増えた雑誌取材に対して、正美は、およそ次のように語っている。
「私が仕事に熱中している時は、子供たちは絶対にじゃましません。ピアノの音で、私の精神状態がわかるんですね。子供たちが寄ってくるのは、きまって、作曲に疲れてそろそろ一休みと思っているとき。私にとってもいい気分転換になるので、喜んで子供たちの相手をします。背中にしがみつくこともあり、セーターの裾をめくってほっぺたをこすりつけることもありますが、追い払いません。そうするには、それなりの理由があるからです。無理にやめさせることはしません。満足したら自然に離れて、他の遊びをやり始めますよ。欲求不満が少しでも子供に残っていると、くずくずしてかえって長い時間がとられてしまいます」
満点ママの情景である。こうした情愛の深さ、きめ細かさは、子供たちに対してばかりではなかった。父母、祐信、ハルに対しても同様であった。どちらも直系の血である。自分を産んでくれた者たち、自分が産んだ者たちへの愛着は、あたかも中心点を同じくする“同心円”のようであったのだ。
正美にとって、生きる支えは二つであった。一つは肉親という円体であり、もう一つは作曲という創造行為の円体――。

 『ねむの木の子守歌』の作曲とほぼ時期を同じくして、閉ざされた家庭内、屋根の下で、正美ならではの作曲が始まった。『しつけ歌』である。
きっかけは、まさに日常の延長上にあった。
「隣に住む母が仕事と育児を抱えた私を、特に育児で助けてくれていたある日、踏切で、母と幼稚園児の純ノ介が口ずさんでいるのを目にしたんです。京都弁の抑揚で、母が“電車アブナイ”の歌を純ノ介の耳に聴かせていました。即興です。しつけ歌の第一号! でした。仕事と育児の板ばさみであったことへの大解答は これだ! と私は思いました」(当時の雑誌インタビューに対する返答/以下同様)
これをきっかけに、正美と純ノ介と祐ノ介、そこに時々直純も加わった「しつけ歌作り」のコラボレーションが始まった。
「母親の便利主義ではなく、まずは『子供の一日の生活に順序を決めてやること』、次いで『生活の順序を、うんと楽しい歌で覚えさせること!』――」
パパたる直純も巻き込んだ。
「父親と子供の橋渡しにもなりました。父親は社会の第一戦、子供は大自然のリズムに乗って洋々と……しつけ歌は、両者のテンポのズレの橋渡しになりました。子供の自閉症は親とのテンポのずれから生まれるのだと思います。親がいっとき幼な子の世界に遊んであげることが大切であり、子をもつ親の義務だと思うんです」
正美は賢母となり、賢妻となった。賢母、賢妻がしつけ歌の効用と、作り方のコツを説く。
「子供は自主的になり、親は能率的になります。親子そろって楽しく、しつけの“実”があがります」
「正しいしつけでよい子に育てるには、同じ言葉を何度も、口がすっぱくなるほどくり返します。曲も子供の音域に合わせ、歌いやすい覚えやすいメロディーで。一度教え込めば、後は親がいなくても一人で歌い出し、その歌の行為を行います」
「創作のポイントは、幼いから地声のまま、子供の音程で。歌詞は短く、意外性に富んだものが受けます」
こうして、子供の日常の規則化と並行して生み出したしつけ歌の数は、いつしか四十数曲となった。
種別的には、次のようになる。

・「朝起きの歌」(起きるけじめ)
・「おはようの歌」……「着がえの歌」
・「朝の体操の歌」(うさぎのはねる真似)
・「歯みがき、洗面の歌」(紳士、淑女の身だしなみ)
・「朝のお食事の歌」(喜んで、感謝をこめて……その日の具材で単語を替えて)
・「うんうんの歌」(子供が便秘した時)
・「ゾウさんのリズム」(子供がぐずったとき……おもしろリズムのフォルテッシモのくり返し)
・「ママといっしょ」、「ひとり遊びの歌」(遊びの歌)
・純ノ介作詞・作曲の――昼寝後に歌う「みんなの歌う歌」
・「おやつの時間の歌」
・「お勉強の歌」
……等々。

 歌詞を具体的に示せば――

「さあ おきましょう」
さあ おきましょう!
おきましょう おきましょう
さあ さあ 朝だ
おきましょう おきましょう
さあ さあ 朝だ
おきましょう おきましょう
おきましょう おきましょう
おきたぁ――

「GOOD MORNING お早う」
GOOD MORNING お早う
○○ちゃん お早う
ママ お早う
GOOD MORNING お早う
きょうも
なかよく遊ぼう

「着がえのうた」
スル スル スルッと
着がえちゃおう
魔法のように早く
あっというまに着がえちゃおう

「キュッ キュッ キュッ 歯をみがこう」
キュッ キュッ キュッ
歯をみがこう
ぶるん ぶるん ぶるん
お顔あらおう
髪をとかし
鏡を見たら
りっぱな紳士(すてきなレディ)

「お食事のうた」
おいしい おいしい
おいしいな
トマト おいしいな
お肉 おいしいな
よくかんで
らん らん らん
いっぱい
食べちゃった

「うんちのうた」
うん うん
うんうんうん
うん うん
うんうんうん
うん うん
うん うん
うん うん うん
う――ん

「踏切あぶないよ」
チャッチン
チャッチン
あぶない
あぶない
でんしゃが通る
気をつけて

「ねんねのお祈り」
ありがとう
あしたも
おまもり
くださいね
おやすみなさい
かみさま

 『ねむの木の子守歌』により皇室と親しく交流していた正美は、「成果を美智子妃殿下にもお伝えしたところ、『すぐに覚えました』というお電話をいただきました」
と、当時語っている。

 成果はさらに――
昭和四十三年、講談社より『幼児の為のしつけ歌音楽全集』がレコード付き絵本として出版され、『ねむの木の子守歌』および『幼児の為のしつけ歌音楽全集』の作曲により、岡本正美は共同通信社の「時の人」に選ばれたのである。
ついでながら……『しつけ歌』については、「かつて幼児のころに身に沁みわたった音曲!」――正美の死後三年を経た平成十八年、純ノ介が子供から大人まで舞台で歌って楽しめる『親子のための合唱組曲 エブリデー・ソング』としてリアライズしている。

 思うに、正美の『しつけ歌』へのとり組みは、母親になったことへの戸惑いの裏返しであったのかもしれない。
さらに思うに、正美の『「しつけ歌』は、直純ならぬ――ではあるが、主婦ならではの正美流の音楽の 「大衆化」であったことに気づかされる。この時期、正美と直純は、まさに同床同夢であったのだ。
また、さらに言えば、「子はかすがい」を地でゆく、家庭円満、一家蜜月の貴重な一時期でもあった。

▼正美の“前衛”音楽

 長男は小学生、次男は幼稚園児という、母として、妻としての三十代半ば、結婚後一番気分上々であったこの時期、正美はもう一つ、“外向き”の作曲を行った。昭和四十二年九月十四日、東京文化会館小ホールにて初演された、彼女にしては目いっぱい前衛の音楽パフォーマンスである。
曲名は『ブラウン・ムーブメント』。三楽章によるサクスフォンを主に、歌と踊りをともなう現代曲である。第一楽章および第二楽章は、アルトサックスとパーカッション(シロフォン&ティンパニ)、カルテット形式の第三楽章は、サクスフォン、シロフォン&ティンパニ、およびピアノ。そこに歌と踊りが加わる。
特筆すべきは、ご本人の舞台登場である。正美は網タイツで踊り、かつ歌った。芸大での恩師長谷川良夫が、発想と音響的な見地から絶賛したことで知られる。
中学、高校時代の同級生、以後も終生の友であった洋画家の桜川洋子は、このコンサートを目にして「やり過ぎ」と心配し、忠告もした。
ポピュラーと渾然一体であった夫に対して、純音楽の道を歩もうとした正美のこうしたパフォーマンスは、この時だけであったが、作曲家としての自分や夫へのストレスでその後急速に太り出す前、網タイツによる踊りと歌、その姿はさぞかし艶なものであったろうと想像する。

 岡本正美、三十六歳。
しかしながら、正美の外に向けての上昇はここまでであった。
一つには、「時の人」になってはみたものの、夫直純のように生きられないのを思い知ったことだ。ジャーナルやマスコミの殺到。テレビ出演、雑誌・新聞の取材……彼女にはとてもではないが“外向きの顔”を重ね続けることはできなかった。

 岡本正美はついに決意した。作曲という自分の神聖領域を確保するための具体的行動と実践! すべてから独立(インデペ)独歩(デンス)であるべき! と――。詳しくは、後に譲る。

 

Ⅴ――「活火山」正美


少々長くなるが……山本直純が雑誌『マダム』に「うちの奥さん――白百合と亀」と題して寄稿した文章があるので、転載する。月日は不明であるが、文中結婚後十一年と記しているので、直純と正美、三十五歳の頃であろう。直純が『ウィット・コンサート』を立ち上げ、大衆指揮者としてノリにノリ始めたあたりだ。

――このところ僕は、昼夜を問わずどなり散らしているようだ。だいたい家の中でどなるのは、どなられる方に罪はなく、どなる人間の生理状態や、心理状態によって起きる現象ではないだろうか。健康状態が思わしくなく、そのうえ仕事のウサも手伝って、つい妻や家の者に当たってしまう。
こんなとき妻は、明るい顔つきで、どこ吹く風といった素振り。子供たちをかばってふくれてみせることもあるが、静かに泣いたりもする。また、突如猛逆襲に転じ、こちらがあっさりカブトを脱ぐ場合もある。僕にとって、彼女の素振りは風にそよぐ葦の如く、ひなをかばう鶏の如く、谷間の白百合の如く、そしてときにはオスを食べるカマキリの如く映じるのであるが、どれをとってもやはり妻の姿なのであろう。彼女のリアクションの豊富な姿勢は、そのまま夫たる僕を悩ませ、喜ばせ、悲しませ、そして傷つけるのである。
逆の場合を想像してみよう。妻がどなり始めるとする。僕は、まったく委縮してしまうのだ。たちまち暗澹たる面持ちと化し、この世も終りの様相を呈してくる。ひたすら妻の機嫌の晴れることを念じつつ、ただ目を閉じて、嵐の去るのを待つ心境である。こうしてみると、わが妻は葦であり、鶏であり、谷間の白百合であり、かつまたカマキリであるのに対し、僕は嵐の中に身をすくめる一介の亀の子にすぎない。
こと子供のことに関する彼女の献身ぶりは、世の母親達に勝るとも劣らぬものがある。お弁当のすみずみや、風呂上がりの耳の掃除にいたるまで、細かく心を配るデリカシーと、男親のように、腕白息子達を叱りとばすバイタリティーを兼ね備え、ひとたび仕事に追われると“子供さえいなければ……”とこぼしながらも、いざとなれば子供の喧嘩にあえて口出しをする、勇気ある親馬鹿ぶりをも披露する。
家庭では、威丈高のどなり放題、脅し一方の威嚇射撃と、亀の子戦法以外には、まったく芸なし猿の僕は、妻の名優ぶりに見とれ、聞きほれる一方なのである。十六年この方――婚前五年、結婚後十一年、あわせて十六年になる――一緒にやってきた仲にしては、お互いに何もわかりあっていない。僕がやみくもにどなりちらす理由を、“女ができた”と勘ちがいする妻も妻なら、ラジオに出演する子供に付き添ってくる彼女をうるさがる当方も、また普通ではないらしい。
そんなこんなの行き違いで、夫婦喧嘩は今だに名物の域。喧嘩の最中に、いきなり台所に引きこもって、楽しそうに料理を始め、こちらの好きな料理の匂いをただよわせる宣撫工作や、にらみ合いの最中に、突如甘いソプラノで、想い出のメロディーを奏でる新戦法には、まったくのところ、ホンロウされっぱなし。一瞬のうちに変化する変化球には、スイッチヒッターとても、簡単についてゆけない。トラブルのあと、いつまでもくよくよと思い悩む小生とは違って、彼女はむしろ、晴ればれとした、楽しそうな表情である。彼女にとっては、夫婦喧嘩も、ちょっとしたレクリエイションなのであろう。こんな彼女も、一歩外に出ると、からきし意気地がない。タクシーを止めることから、食事の見立てにいたるまで、すべて小生にたよらざるをえない。
いつかテレビで、“スター裁判”なる番組に出場。小生を“不潔の輩”と決めつけるため、妻は証人として呼ばれたのである。
「あなたの夫は、一年に何度お風呂に入りますか?」と問われ、
「お風呂に入らず、顔も洗わず、髪もとかさず……」と答えなくてはならない破目に陥ったとき、彼女はどうしてもその嘘がいえない。悩み抜いた結果、本番ではとうとう、「毎日入っとります」と蚊の泣くような京都弁で応えたことがあった。番組の司会者は大いにあわてたが、ほんとうのことをいわずにいられない、そしてそれを申訳なさそうに、ソッと京都弁で告げた彼女の心情を察して、「オヤオヤ」ということで不問に付してくれた。遊びや戯れとわかっていてもそれができない妻が、人並み以上の努力をして、人並みのことをやっとき、「妻(おめえ)よでかした、良くやった」とほめてやれる夫になりたいと思うのだが、一夜明けてウロウロする妻を見ると、またもや一発やってしまう。こんなとき「いってらっしゃい!」と機嫌よく背中をたたかれると、男なんて他愛のない動物だ。「家の奥さんバンザイ」と心の中で叫んでしまう――(原文のまま)

三十代半ばの男の文面としては、なかなかに練れていて、ユーモアがにじむ余裕もあり、老練な筆さばきでさえある。
しかしここで読み解いておかねばならないのは、山本直純とは、世の寵児となって以来、一歩家を出れば、世の「外の人たち」をつねに意識し続けたうえでのすべてであったということだ。この文面自体もその範疇であり、だからと言って、彼に対する非難でもなんでもなく、むしろ肯定要素である。
文中でもあきらかなように、当然もっているべき「外の人たち」に対する社交性、サービス精神、妥協が、ほぼ皆無であったのが正美である。生まれたまんまの、無垢そのまま(歳を重ねれば無垢は無垢そのままではないのであるが)とでも言うべきほどに。しかも愛情、物事への執着は、人の二倍も三倍も濃い。

夫婦喧嘩の第一発目として直純の口から語られていたのが、長男純ノ介の誕生の際である。この時、直純は大学卒業を目前に控えたまだ学生の身でありながら、外では新進気鋭の作曲家として、アシスタントを抱えるほどの超多忙であった。仕事は外せない。誕生の産院に向かわせたのが、そのアシスタントだった。
「正美は激怒しまくりました。本人がこないで、アシスタントをよこすとは!」
しかもこの怒りは、後々までも――。
正美の肩をもつ必要もある。出産は難産であった。臍の緒が赤児の首に二重に巻きつき、産声をあげない仮死出産。ようやくにして、「オギャーッ」。赤児をとりあげたのは、外科および産婦人科医として病院を経営する姉・木村和美の夫であった。彼は、「もう肉親の赤ちゃんは取りあげたくない」と言うようになったほどの、難産だったのだ。

後々の事件である。
NHKでの指揮の仕事。生来のオッチョコチョイである直純は、オーケストラのスコア(総譜)を家に忘れてきた。妻に電話した。妻はスコアを届けにNHKに出向いた。すでに楽員たちは着席し、指揮台にスコアが乗せられるばかり、練習開始いまか、いまか――の状態であった。届けた妻は指揮台にスコアを置いた。夫は「ああ――」と言ったきりだった。すると妻は、すかさず、置いたばかりのスコアを抱えてサッサと家に帰ってしまったのだった。 本番を控えて、大騒ぎとなった。

妻曰く――「せっかくもっていってあげたのに、アリガトウの一言もなかった!」

自分への非礼を許さない正美。
困った、困った――の直純。

▼家の内と外で――

こうしたことの積み重なりが、正美の怒りの気質をエスカレートさせたのか? ハデとと言うよりは、度を超えた激烈なまでの夫婦喧嘩が、家庭の内と外で繰り広げられることになる。しかもヘンな話であるが、内と外ではその決着が違うのであった。
内では直純が暴れる(・・・)のである。外では逆転、正美が暴れる(・・・)。

内の場合――
たいがいは、直純の側に起因がある。午前様である。しかも酔っぱらっての帰宅である。時に酒乱気味でさえある。そうしたうえで怒鳴り散らす。
先の文面は、そうした時の直純の妻への真情を正直に吐露してみせてはいるが、オブラートがかかっていることを忘れてはならない。
結果、居間やキッチンは暴風雨に遭ったごとく、地震に見舞われたごとくにメチャメチャとなる。直純が、壁に、床に、机の上に、皿や花瓶など、手あたり次第に投げつけるからだ。しかも高価なものばかり。一面がそれらの破片の累々となる。
なぜそこまでエスカレートするのか?
純ノ介さんによれば――
「オヤジがイケナイのだが、おふくろもイケナイ。挑発のし合い。互いにその倍返し。オヤジ側に立てば、オヤジがそこまでエスカレートするくらい、オフクロがヒドイ言葉を吐くし――」
祐ノ介さんによれば――
「オフクロは、男が酔っぱらっているとどうであるのかを、まったく理解しないというか、受けつけないんですね。酔っていても普通なのだ! としてしまう。酔っ払いの言動を、そうでないものとして聞くから、二人はドンドンおかしくなってゆく――」
直純の先の文中にあるように、酔っ払っての言動は、時に息子たちにも向かう。純ノ介が直純と揉み合った時だ、母たる正美はついに台所の包丁を取り出し、夫に立ち向かった。無論、じっさいに刺すつもりはなかったのであろうが、運悪く息子の左手の親指に刺さってしまった。純ノ介は何針か縫うことになったその傷を、いまももつ。
刃傷ざたならぬ警察ざたも、しばしばであったという。直純のモノにあたる暴力が頂点に達し、正美が現場から逃げ、直純がその正美を追い、正美が家はもとより隣の母屋の周辺までをも逃げまわり、その果て、正美が玉川警察署に電話する。「すぐきてください! ヘンな人が家で暴れています!」。ヘンな人とは無論、直純である。警官は、サイレンを打ち鳴らして駆けつける。そこまでいくと、直純は姿を消している(姿をくらますのは学生時代からの特技だ)。警官が舌を打ち鳴らす――「またですか! 奥さん! いいかげんにしてください」。
渡り廊下でつながる母屋の父母、祐信とハルは、無論、事の次第を知っている。事が収まり、直純が申し訳なさそうに戻ってくると、ハルは「困ったわ、困ったわ――」と呟きつつもけなげに破壊されたモノの片づけを始め、祐信は直純を母屋のソファーに坐らせて「困りますよ、ナオズミさん!」と説教をする。直純はただひたすら頭を垂れ、身を縮めて謝る。そう、先の文中にある「僕は嵐の中に身をすくめる一介の亀の子にすぎない」という、それである。
直純が「亀の子」となるのは、この時ばかりではない。外で二人が、犬(・・)も(・)食わない(・・・・)状態になった時も――。
ところで、暴風雨のあとの二人であるが……純ノ介さんも祐ノ介さんも異口同音にこう言う。
「不思議なんだよね、二、三日もすると二人ともケロッとしていて、『美味しいものでも食べにいくか』と、若い恋人同士のように手をつないで出かけてゆくんだから」
だから、犬も食わない!

外の場合――
外では二人の立場が逆転する。
祐ノ介さんが語る。
「集まりの悪い家族でしたから、皆の顔がそろうと『食べに行こうか!』となる。例えば横浜の中華街。となると、オヤジはきまって友人やら親戚やらに電話をかけて、『大勢で食べるのはいいことだ!』となります。で、食事の最中に、かならず二人の喧嘩が始まります。原因はいっつも些細なこと。美味い料理が出て、オヤジが『六本木で食ったコイツも旨かったなあ』と呟くと、オフクロがすかさず『誰と食べたのか!』『なぜ私を呼ばなかったのか!』となって、もう、後はメチャメチャ。一人帰り、もう一人抜け出し、オフクロも怒って出てゆき……二人が一緒に仲良く帰る食事会など、あった試しがありません」
中華店の丸テーブルならこれですんでいたようだが、例えば鮨屋の広間だったらどうなるか? 家で暴夫の直純は「亀の子」となり、正美は暴妻と化して、直純の上に馬乗りになる。で?……
「ビールを彼の頭にぶちまけ、そのうえポカポカ殴るんですね――」
その時、彼は?……
「殴られるままに我慢し続けていました」
その現場を語るのは、作曲科で正美と同期、その後も二人と親しくつき合っていた五十嵐直代さん(テノールの五十嵐喜芳夫人)だ。
こうした光景は、二人と親しい他の音楽人の何人もが目にしている。
正美側に立てば、家庭内八つあたりへの逆襲であろう。
殴られるに任せる直純は、「亀の子」演技である。時代の寵児は、世間の目に対して良夫であり続けなければならないからだ。

▼嫉妬と猜疑心と……

内と外とで喧嘩両成敗だが、直純が困り果てていたのが、正美の猛烈、強固な嫉妬心と猜疑心であった。例えば――
純ノ介さんによれば、
「テレビの音楽番組で、司会者のオヤジが、なんの不自然さもなくゲストの女優さんの肩を触ったり、手に触れたりしますね。それをオフクロが見ていると、タイヘンなことになります。オヤジが帰宅するなり、『その手は汚(けが)れている!』となって、クレゾールの原液をもち出し、『さあ、洗いなさい!』となる。原液ですよ! 手が爛(ただ)れてしまいます」

オーケストラの演奏を円滑に支える裏方としてステージマネージャーという職がある。舞台で言えば、舞台監督だ。日本フィルハーモニー交響楽団と新日本フィルハーモニー交響楽団のインスペクター(練習等の調整係)として長らく直純と共に仕事をしてきた某ステマネ氏は、正美の嫉妬心の大迷惑を被(こうむ)っている。
この章の冒頭の直純の「“女ができた”と勘ちがいする妻も妻なら……」という文面そのまま、直純のタクトで歌うソプラノ歌手に嫉妬して舞台に駆けあがり、聴衆の面前でその歌手のほっぺたを叩いたのだ。公演中である。
「何度そういうことがあったか!」、つまり何度も公演をぶっ壊されたそのステマネ氏は、正美を恨み、怒り心頭である。

正美は直純のテレビ出演、公演の舞台でのオモシロオカシイ、タレント的な振る舞いを嫌っていた。
小澤征爾の演奏会の時である、直純が例によって奇妙な格好で出演する道化役を買って出た。それを正美が耳にしたのが運のつきだった。楽屋に押しかけた正美が、「そんなみっともないこと、おやめなさい!」となって、直純を楽屋に閉じ込め、彼はとうとう出ずじまいとなった。

二人の喧嘩と正美の嫉妬と猜疑心とは、つねにセットであった。
そのあたりを純ノ介さんに訊ねると、
「僕が八歳くらいの頃からですね――」
との答え。日常のやりとりで、正美が活火山と化し始めた時期である。
「いまから思うと、母は非常に生理が重く、その前後あたり……。ですからバクハツするのは月に一、二度ですが、作曲に専念している時は、なぜか不思議、そうではなかったですね。穏やかでした――」

正美特有の撩(りょう)乱(らん)と言うか、狂気と言うか、相手は直純ばかりではなく、さらに他者へと広がった。目の前の者の自分に対する不義、不忠を感じとると、彼女はしばしば爆発し、活火山と化した。
ホテルに滞在の折、ボーイに対して、コンサートホールのロビー係の女性に対して、その不義を声高に糺(ただ)し、相手が土下座するまでやめない。
郵便局の窓口係が失礼をはたらいたのだろう、彼女の怒りに局員すべてと来客が凍りつき、しまいには「これだから郵政省はよくない、郵政大臣を連れてきなさい!」とまで昂じてしまう。
こうした激昂は、日常の生活レベルで接点となる人たちだけでなく、直純の友人、音楽関係者、自分の作品をとりあげてくれる指揮者……などに及ぶことも度々であった。

祐ノ介さんの分析である。
「新婚の頃は、オフクロもオヤジと同様に、外の仕事をこなしていたんですよ」
確かにこの頃、直純は渋谷に自分の事務所をもち、正美は九品仏に作曲のための部屋を借りていた。朝、純ノ介を母ハルや家政婦に任せると、二人は駅まで一緒、そこで別れてそれぞれの仕事場に向かうオシドリ夫婦だったのだ。
「ところがオヤジの方はドンドン売れっ子になる。自分からドンドン離れていくのがたまらなかったんでしょうね。自分は家に閉じ込められたまま、オヤジへの嫉妬も生じて……。
でも、困ったことに、オヤジはオフクロのその嫉妬が逆に嬉しかったようなんです」

この頃、週刊新潮が二人の様子を記事にしている。以下は、直純の友人の観察の言葉だ。
「それだけ、彼は彼女にホレているんだな。彼がステージで脱線し、サービスしてお客さんを笑わせる。それも奥さんにあとで自慢する材料になっているかもしれんと思うんですよ。彼には、そういう無邪気なところがあるんですね。もちろん、シリ振りの指揮と同様、夫婦ゲンカもしごくマジメでね……」(原文のまま)
マジメ? とされた夫婦ゲンカについて、幸いにして同じ記事の中に、正美自身の言葉が載っている。
「私たち、夫婦としての真実が薄れそうになった時は、ケンカするんです。夫婦というのは、ちゃんとした心で結び合っていなくちゃいけない。世の中に、真実といえる夫婦が何組いますか。私共こそ真実の夫婦です」(原文のまま)
誰がどう思おうとも、誰にどう見えようとも、正美にとって夫婦喧嘩は夫婦愛の確認であり、それ以外の真実はなく……だったとしても、なんという凄まじいエネルギー! 凄まじい発散であるか! 正美にしても、直純にしても。常人には、とてもではないがその蓄(たくわ)えはない。蓄電すれば自らを焼き尽くしてしまうからだ。

▼「電話魔」正美

暴風雨がすぎ去れば、奥山の湖面の水面のように微動だにしない時間がくる。本人にとり一種たまらない閉塞的時間でもある。
過重な閉塞感は、それがはじける“なにか”を必要とする。なにかとは、自分を閉塞させている領域の外、外界との接触であり、そのための手立てである。それが無ければ重度の自閉症に陥るか、鬱の患者になるしかない。
電話がそんな彼女の手立て(・・・)となり、救いとなった。救われなかったのは、多くの女友だちであったろう。なぜなら、真夜中、直純ならぬ午前様で電話をかけてきたからだ。だが、ほとんどの人がそうした彼女に応じ続けた。
中学、高校時代の同級であった洋画家の桜井洋子、直純の幼馴染で芸大で正美とも同期だった声楽家の村上絢子、芸大の作曲科で同期だった田中友子、やはり芸大で作曲科の同門だった五十嵐直代……交流がほぼ終生続いた彼女らへ、正美は事あるごとに電話をかけた。世間話に終始することもあったようだが、彼女が口にしたのは、ほぼ直純に対する不平、不満、愚痴の類(たぐい)であった。人との交流が頻繁な山本家である。時に思慕を抱く恋もあったようで、そうしたことも正美の口にのぼった。
正美の声は直情的で、思ったら止まらず、言うことがクルクルと変わり……だがなぜか、心をこめて応じていると、無邪気になり、イヤミったらしくもなく、サッパリとさえしていて、けっきょく憎めないうえに、可愛くさえ思えるのだった。
私は「お姉さん役」、「母親役」――ほとんどの人がそう答えた。
村上絢子さんはやや違っていた。
「私は『あなたとは対等の人間!』そういう気持ちで応じていました。ですから、真夜中の電話は迷惑! そうハッキリと言いましたら、その後はピタリと止まって、ちゃんとした時間にかかってくるようになりましたよ」
根は素直なのだ、子供のようなのだ――そのようにも、村上さんは彼女を見ていた。

電話や交流で大きなポイントとなったのが、舞踊家アキコ・カンダとの再会である。正美が四十三歳の年(昭和五十一年)であり、ついに『交響曲第一番』(四十歳)と『第二番』(四十二歳)を完成し終え、交響組曲『スプリング・ハズ・カム』がアメリカのグラナダ・シアターにて初演された年、シンフォニー作曲家としての積年の念(おも)いを自ら切り拓いていた時期だ。
きっかけはNHKの大河ドラマ『風と雲と虹と』(主演:加藤剛、木の実ナナ)で直純が音楽を担当し、アキコが振り付けを担当したことによる。すでに記したように、二十年前、渡米前のアキコのリサイタルで、正美はピアノ曲を作曲、演奏している。直純夫人が正美であることを知ったアキコは、彼女との再会を直純に申し出た。
「正美さんの住まいは奥沢、当時の私の住まいは柿の木坂。近くでしたので、よく遊びにきてくださいました。毎日のように電話がかかってきて、二時間でも、三時間でも話し込みました」
昔とどう違っていたのか?
「はっきりとモノを言うようになっていましたね。お互いに我儘で純粋でしたから、気が合ったのでしょう」
彼女から見た正美は、どうであったのだろう?
「さびしがり屋でした。独りでいられない人。私はその点で違っていたと思います。ニューヨークで鍛えられたんですね」
彼女はモダンダンスの開祖的存在であったマーサ・グレアムに弟子入りし六年間の特訓を過ごした。
「先生はたった一人の日本人である私にたいへん目をかけてくださり、私のための振り付けをしてくださるようになり、その分、他のダンサーの目が辛くなりました。他のダンサーはみんな敵! そう思わなければ続けられなくなったんです。でも、それが私を鍛えました。ですから私は、今でもそうですが、孤独――一人でいる方が仕事がしやすいんです。
お風呂で湯につかりますよね。私はぬるい湯が好きなんですが、そのぬるい湯に耐えてじっと浸かっていると、ジワジワと温かくなってくるんです。
正美さんは耐えるということ、一人の方がよいということ、そのあたりが難しかったんじゃないでしょうか」
そして、こうもつけ加えった。
「創造する者は、孤独に耐える力をもっていなければなりません」
アキコ・カンダはニューヨーク時代の舞台で、作曲家の一柳慧や黛敏郎と仕事をしている。特に黛とのコラボレーションは継続され、帰国後も黛への音楽委嘱で舞台を作っている。
「舞踏家とよりも作曲家とのつき合いが多い」と言うアキコ。そのあたりの話で二人は大いに盛りあがったに違いない。特に正美がアキコを必要としたに違いない。
正美とアキコとの濃密な付き合いは、二、三年続いた。
ある日、正美がポツリと、決意をアキコに漏らした。
「私、芸大の大学院に入ろうかと思うの――」
女、四十五歳の決意である。
その時、芸大大学院の担当教官の一人が黛敏郎であったことは、正美の意識にあっただろうか?
いずれにしてもアキコ・カンダとの交流は、作曲家としてのその後の正美にとり、大きな励みとなった。

 

Ⅵ――女性作曲家とは

ここまでは、岡本正美の〈内〉なる領域(家庭等)に焦点をあててきた。ここから先はコインの表裏のもう一方である〈外〉なる領域(作曲および作品)への焦点であるが、その前に――。
どうしても考察を要することは、彼女が「女性」であるということだ。つまり、女性(・・)作曲家(・・・)と(・)して(・・)の「女性」の部分である。
考えてみれば、作曲家が男性の場合、「男性」作曲家とは呼ばないし、書かない。事ほど左様に「女性」の部分が浮きあがる。
なぜか? それでよいのだろうか?
同時に、「女性作曲家とはどうであるのか?」という問いでもある。

▼作曲における男女の差異

そもそも芸術作品に男女の違いはあるのだろうか? 絵画や彫刻、書道・書画など、視覚芸術にはそれなりの差異が感じられるが、音楽となると……ほとんどの音楽人――作曲家自身(女性作曲家も含めて)、指揮者、評論家、音楽学者が、差異はないと答える。ここで言う差異とは、(例えば作曲者の名前を隠して)聴いてわかる差異としての、曲そのもの(・・・・・)である。
正美の合唱曲や管弦楽曲を何度も指揮した内藤彰さん(東京ニューシティ管弦楽団、および東京合唱協会の音楽監督・常任指揮者)は、次のように話す。
「作品コンクールの審査員もやっていますが、応募した合唱曲や管弦楽曲を聴いて、この曲は男性による作品だ、いや、女性による作品だ――などの違いはいっさいわからないですね。つまり、曲と性別とはまったく結びつかないんです」
音楽評論家で、女性作曲家の研究者でもある辻浩美さんは、大学の教室で学生たちに女性作曲家のバイオリンソナタを聴かせて「男性作品か? 女性作品か?」の判断の実験をしている。曲はきわめて激しい男性的な運びであった。全員が「男性の曲だ」と答えたという。
同様の実験は、同じく女流作曲家の研究者である小林緑も行っている。結果は同じ。内田さんの見解とも一致する。

音楽は「空気」の振動の芸術である。別の言い方をすれば、この地上から遊離したような、とでも言おうか、聴覚に訴える「宇宙」的な発語のようでもある。だから性の色に染まらない。空気や水がそうであるように。心臓の鼓動に男女の差異がないように。
だとしたら、なおのこと思うのだが、我々は、女性作曲家の作品を耳にすることがあまりにも少ない。女性作曲家の数も、極端に少ないように感じる。それはなぜか?
結論を言えば、これまでの音楽史の経緯はもとより、現在でもそこから脱し切れていない、相変わらずの世の偏見、風潮によろう。

先の辻さんによれば、
「音楽大学の学生の男女数を見ればあきらかです。全体としては、断然女性の方が多いんです。男性三に対して女性七……」
確かに、「音楽は女、子供がするもの――」という風潮が昔から強く、いまでもあまり変わらない。音楽では食べていけないからでもある。
「ところが、これが作曲科や指揮科になると、男女比が逆転するんですね。男性上位です。創造すること、モノゴトを仕切ること……指揮者がそうですが、こうしたことは女性はダメ、女性には不向き、女性に向いているのは見られること……演奏家がそれにあてはまりますが、そうハッキリ言う音大の教授さえいます」
フェリックス・メンデルスゾーンの姉、ファニー・メンデルスゾーン=ヘンゼルと、グスタフ・マーラーの妻、アルマ・シントラーを想起せざるを得ない。二女共に作曲家であったが、ファニーは父から公的活動は弟が行うものと限定され、作品の発表は自宅サロンのみ、作品の出版さえも禁じられた。さらに言えば、弟の名で出版された作品の多くは彼女の作という説まである。例えば、あの有名なフェリックスの代表作品『ヴァイオリン協奏曲 ホ短調』、通称『メンコン』も、姉ファニーの作ではないか? という説もあるくらいだ。
指揮者であり作曲家であったマーラーの妻アルマは、夫マーラーから作曲を禁じられる身となった。
もう一つは、辻さんが指摘した「女性に向いているのは見られること(・・・・・・)」という言葉に象徴されるジェンダー(性差)である。
極端な話になるが、フランスにおけるバレエの創成期を想起せざるを得ない。上演の劇場には必ずロイヤルボックスがある。このボックスは王侯貴族、新興のブルジョアジーたちが年間で買い占めた。踊り子を見るのに最適で、その美貌、妖艶に見惚れるためである。彼らは楽屋に自由に出入りできる特権も有した。舞台で、踊り子たちはよりいっそうボックスの客たちの目にとまるよう、美脚を天に向けて高く上げるようになった。要は、自身の個人的スポンサーになっていただくためである。個人的とは?……もはや言うに及ばない。
一七世紀末ごろではあるが、その頃の芸術にはそうした卑俗な側面があった。換言すれば、その頃バレエはまだ芸術ではなくて、芸能の一つにすぎなかった……ということである。

現代――ソロの演奏家に女性が多いからと言って、それ、すなわち「見られることに向いている」ということを、女性演奏者にあてはめようとすれば、ご本人たちはもとより、クラシック音楽ファンからもたちまち叱責を買うことになる。作品そのものがそうであるように、演奏そのものも断じてジェンダーではないからだ。
残る問題は、また元に戻って、「なぜ、女性作曲家は少ないか」だ。
その要因の最大は、家庭をもった場合だ。そこに夫との相性や本人の個性、特性が加わる。こうした内(家庭)の事柄に加えて、外(社会)とのかかわり(女性ゆえに仕事を得にくい……など)――という両面から、創造することが女性にとっていかに「不利」であり、困難な道であることが浮き彫りとなる。時代、風潮を超えて――。

▼日本の女性作曲家の奮闘

明治に洋楽が導入されて以来、様々に秀逸な女性作曲家を輩出してきたが、いずれの人も、それぞれが抱える内・外と闘いつつの作曲活動であった。
以下は、小林緑・編『女性作曲家列伝』(平凡社選書)の第十六章「日本の女性作曲家(明治期から昭和初期まで)」(辻浩美・執筆)からの要約である。

明治期の半ばにしてボストンのニューイングランド音楽院、次いでウィーン音楽院への留学を果たし、ピアノ、ヴァイオリン、和声学・対位法・作曲法の研鑽を積んだ幸田延(明治三年生まれ)は、帰国後すぐに母校・東京音楽学校(現・東京芸術大学の前身)の助教授となり、ピアノ、ヴァイオリン、声楽、作曲を教えた。日本の洋楽界を背負っていく滝廉太郎、久野久子、三浦環などを育てた。さらに、日本人として初めての本格的な器楽曲(ヴァイオリン・ソナタ)、混声四部合唱付きの交響曲も発表し、いっきに洋楽界のスターダムへと昇りつめた。だが、やがて周囲の男性教授たちの嫉妬の対象となり、就任以来わずか十四年、三十九歳の若さで退職し、洋楽の表舞台から身を引いてしまう。
以後は終生、自宅で子息へのピアノレッスンに力を注いだ。生涯独身でありながらも、まさに男性上位に夢破られた人生となった。

こうした男社会に果敢に挑戦したのが、女性作曲家のパイオニアとされる松島彜(つね)(明治二十三年生まれ)である。
彜は裁判官である生真面目な父の下で育った。音楽の成績に抜きん出ていた彼女は、音楽学校への進学を希望するが、その父がゆく手を塞(ふさ)いだ。父が演奏家を芸人と見下していたからだ。そこで彜は、演奏家にはならない、音の研究(作曲)を目的とするということで許され、明治四十年に東京音楽学校の予科に入学した。
翌年に本科ピアノ科に進み、その後、研究科(現在の大学院)へ進級する段になって、第二の壁が待ち受けていた。当時作曲科は研究科にしかなく、そこでの作曲の勉強を望んでいた彜であったが、女性の作曲専攻は前例がなく、すなわち「女に作曲はムリ」ということで、プライベートに作曲の研鑽に励んだ。
明治四十四年、優等で卒業した彜の次のステップは留学であったが、父が脳溢血で倒れたことと、時の学習院院長、乃木希典の「学習院の教官に」という懇願により留学を断念し、以後三十五年間学習院に奉職することになった。
地味な道を歩んだ彜であったが、作曲家としてのキャリアは着々と積み、弦楽四重奏曲、ピアノ、チェロ、ヴァイオリンの独奏曲、声楽曲を発表し(奏楽堂/帝国ホテル)、満州で自作品をプログラムに入れた演奏会を開くなど、当時の女性としては異彩を放つ活動を行った。
学習院を退官した戦後は、創作の対象を仏教音楽に移し、カンタータ『極楽荘厳』は初演されたが、その方面での集大成とも言うべき『般若波羅密多賛歌』は、演奏に二時間を要する大曲ということもあってか、いまだに演奏されていない。
一時は「我が国初の女性作曲家」としてもてはやされた彜であったが、全体としては日本の音楽界から注目されずに終わった。学習院という閉鎖的な環境の中で三十五年を過ごしたこと、仏教音楽という特殊な方向に傾いたことなどによろう。だが、もう一つ、「女はあまり表に出るな」という父の教えに従い、無意識のうちにもジェンダーな規範に縛られていたことにもよる。
もとより彼女に男女の別の意識はまったくなかったが、なにやらメンデルスゾーンの姉ファニーとその父との相克を思い起こさせる。

大阪の大富豪の家庭に生まれた外山道子(大正二年生まれ)は、独学でフランス語を習得し、ピアノを習う目的で単身パリに渡った(昭和五年)。やがて作曲に興味をもち、エコール・ノルマルに入学して作曲を学んだ。
彼女の作曲の質が当時のフランス音楽界の巨匠ジャック・イベールの目にとまり、彼のすすめでパリで開催された第十五回「国際現代音楽祭」に応募し、みごと入賞を果たした。日本人初の快挙であった。作品は、ソプラノ、クラリネット、バスーン、フルート、チェロのための『大和の声』。しかしこの作品の日本での初演は、半世紀以上経ってからである。日本の音楽界の当時の男性上位による無視を被った結果でもあった。日本の有能な男性作曲家がこぞってこの音楽祭に応募していたのだが、不慮の事故により作品が期日までに到着せず、無効となった。日本の音楽界は、誰も知らぬ彼女に受賞がさらわれた感を抱いたのであろう。昭和十四年に彼女は帰国したが、音楽界の彼女への無視はその後も続いた。
帰国後の翌々年、道子は結婚して一男一女に恵まれたが、終戦の年に夫が戦死し、その後生活のために大阪音楽短期大学の助教授に就くなどの苦労を重ねている。
その後、二人の子供を母に預け、ふたたびフランスに渡り、パリ国立音楽院でメシアンなどに師事し、六年にわたって電子音楽を学んだ。その成果として生まれたのが『和歌』、『やまとの声』、『日本民謡による組曲』であり、ロックフェラー財団より電子音楽の奨学金推薦を受け、勇んで帰国した(昭和三十六年)。自分の創作の基盤、音響スタジオを設立するためである。しかし様々な事情からこの設立は断ち切られ、自宅に引きこもって、音響学に関する執筆に専念するようになった。
男性上位によるいわば抹殺の不幸を被った外山道子であったが、本人が「自分からあえて作品を発表する場を設ける意志はない」と語っている消極性にもよる。彼女をしてなぜそうさせたか? 一匹狼として活動し成功することの難しさ、女であるゆえ――本人をそうさせてしまう時代の未熟さを感じずにいられない。

以上、わずかではあるが、洋楽の黎明(れいめい)期である明治時代から昭和の終戦前、一部終戦後しばらくまでの、日本の音楽史上を飾った、あるいは記憶された主だった女性作曲家を取りあげてみた。
例外なく皆、岡本正美と同様に裕福な家庭の下に育ち、幼少より音楽の才を示し、音楽(特に作曲)へ人並ならぬ情熱を注ぎ、自らの強い意志にて目指す道へ進んだ。
共通するのは、創造者に不可欠である孤独に耐え抜く力、自らを切り拓く力が抜群であったことだ。そうでなければ洋楽の本場への留学(松島彜を除いて)、そこでの輝かしい成果、作曲家としての初期を決定するそうしたプロセスさえ歩むことができなかっただろう。
正美は留学というプロセスに恵まれず、したがってそれに伴う孤独、そうした時間によって培われる忍耐力を身につけることができなかったという点で、彼女らと歩みを異とする。
ともあれ、実績にふさわしい評価が定まらなかったこと、評価が得られてもそれ相応の進展とならなかったことは、ほぼ全員に共通する。それはひとえに、「男性上位」という牙、「女性だから作曲はムリ」という偏見によろう。しかしながら、そうした風雪の中にあっても一人抜き出ていた女性作曲家がいたことを、忘れてはならない。

沖縄出身で、終生「沖縄の心を伝える曲」を書き続けた金井喜久子(昭和二年生まれ)だ。昭和十四年に『交響曲第一番』を初演して「女性初の本格的交響曲」と絶賛され、戦後は、いずれも沖縄(琉球)をテーマにした交響詩曲、組曲、室内楽曲、オペラなどを作曲し、さらには歌舞伎、ミュージカル、創作バレエ、児童劇などの舞台音楽まで活躍の舞台をひろげた。沖縄を舞台としたMGM映画『八月十五夜の茶屋』(昭和三十一年)の音楽を担当し、この分野での先駆的役割も果たしている。
彼女こそ「作曲は男の仕事、女はせいぜい声楽曲の作曲」という通念を払拭した、初の女性作曲家と言える。
彼女の強みは、「沖縄国民楽派」とまで評された、自分の故郷“沖縄音楽の伝統”を基調にしたアイデンティティーの一貫性にある。夫の金井儼四郎が終生彼女の良き理解者であり、スポンサーとして経済的な支援をし続けたことも幸いした。
性顔負けのキャリアであった喜久子であったが、その作品がいまや眠ったままであることも付記しておかなければならない。

▼その後の女性作曲家の光

さて、岡本正美の時代、世代である。
終戦から間もないとはいえ、正美の芸大入学時点での作曲科への女性入学者は男性の半数に及ぶ(前記)。戦後民主主義と男女平等の思想の浸透によるためか、体制的にも、社会の受容性からも、かつてのような根強いジェンダーはかなり薄まっていたと言える。しかしながら……。
その「しかしながら……」を明瞭とするために、正美の世代の後の世代に目を転じてみよう。つまり、現在活躍中の女性作曲家たちである。
その代表格として――

先に引用した『女性作曲家列伝』の巻末に、編者である小林緑と作曲家藤家渓子との対談が組まれている。
藤家渓子(昭和四十二年生まれ)は、作曲賞では日本で最高とされる「尾高賞」を女性として初めて受賞した逸材。モノローグ・オペラを発表し、ニューヨークでダンスと音楽とのコラボレーションを公演。現在「オーケストラ・アンサンブル金沢」のコンポーザー・レジデンスを務めている。その音楽の特性は、どこまでも軽やかで、音楽の根本要素(旋律やリズムなど)が大切にされ、現代音楽特有の暗さや難解さとは無縁。クラシックの枠にとらわれない、ポピュラーも古楽も民族音楽も伝統芸能も自由に解体・融合する“藤家様式”は、新しい様式を示唆するものとされている。
以下は、この書の対談での渓子本人の発言の要約である。

「女だから繊細な曲を書くだろうというのは、あまりにも馬鹿馬鹿しい思い込み。書くということが、逆に自分でないものになりたいという欲求を満たす場合もありますし」
「(ある本に)女に作曲ができないんじゃなくて、チャンスが与えられないからそういう訓練を積むことができないのだと、書かれていましたけど。それこそマーラーみたいに、いつでも自分で振って書いていければ最高なんで、今はスタジオの作曲家たちがそれをやっている。以前私も少しコマーシャルの仕事をしたんですが、すごく勉強になりました」
「作曲家では食べられないという前提でものを考えたり、作品を発表したりするのは、ほんとうはよくないこと」
「(オーケストラの編成)あまり現実的でない編成にしないで、もう少し現実的に考えて、チャンスを失わない方がいい」
「作曲が職業として成り立つ土壌は絶対にある」
「嘱託という行為が盛んにならなかったり、現代曲を演奏するとお金がかかるということで、演奏されにくくなるのは困りますね」
「(あえて安い料金でコンサートしようとした時に、クラシック愛好者層から高級感がないと反対されて)クラシックを特権階級のものにしておきたいのでしょう。貧乏な人たちには来てほしくないと。ありもしない貴族社会みたいなのを気取りたいんでしょうか」
「作風の変化については、たぶんCM音楽の経験が大きいんじゃないかと……中略……それまで自分が思い込んでいたことに揺さぶりをかけられた……中略……CMの世界では、人の心をつかまなくてはいけない。これはCMでなくとも非常に大事なひとつの要素なんですね」
この対談中の相手方の小林緑の発言も、重要である。
「戦前など、ポピュラー系の人がクラシック音楽を作ったり、クラシック系の人がポピュラー曲を作っているんですよね。クラシックとポピュラーをはっきり分けちゃったのは、第二次世界大戦後の話かもしれませんね……二〇世紀初めまではすごくクロスしているって感じなんですよ」

大袈裟に言えば、ポピュラーもCMも、なんでもこい! というほどに自由奔放、貪欲なこうした受容全開ぶりは、あきらかに、まだ自らをジェンダー化せざるを得なかった正美世代にはあり得なかった傾向であり、境地である。逆に言えば、藤家が指摘、強調したこと――クラシックすなわち特権階級、貴族社会、そうした気取り……が、正美にどれだけ刷り込まれていたか、否か? これは非常に難しい問題である。彼女が習った音楽教師、教授の資質と傾向とも関連するし、厳密には彼女の作品そのものから音楽学的に検証するしかない。著者の凡能を超えている。

話を戻す。藤家の発言からイメージされるのは、モティベーションが、山本直純が突っ走った路線と重なるということだ。まさにポピュラーも、CMも、映画音楽も、劇伴も、その他のジャンルとのコラボレーションも、なんでも受容全開! その痛みと汗と屈折も含めて、それによってその先の自分の世界がひらかれるのであれば、そしてそれが特に女性作曲家それぞれの手によってであるならば――草葉の陰から山本直純が、「バンザイ」を叫ぶことだけは間違いない。

ついでながら、もうひと方にご登場いただこう。作曲家の有馬礼子である。
有馬礼子(昭和八年生まれ)は、岡本正美と同世代。芸大卒業後、東京音楽大学に勤務しつつ、ピアノ独奏曲『失われたものへの三章』、ピアノのためのスケッチ集『子どもの庭』、女性合唱曲集『愛のメモリアル』、オルガン曲『みやび』、ギターオーケストラのための『波の讃歌』、『交響詩“宮古”』、『弦楽四重奏曲五楽章沖縄にて』など、多数の作品を書いている。
彼女は一時、映画、ラジオ、テレビ、レコードなどで作編曲の仕事をするが、後に「つくらされる音楽からつくる音楽への転身」、「絶対書きたくない音楽は、劇伴、コマーシャル、編曲、流行歌」、「できる限り、他人に解かり易く、しかも端的で的確にものを表現したい」と、それらと訣別した。
その点では、仕事のジャンルにこだわらず、その中で自由に自分の境地を探る二、三世代若い藤家渓子とは一線を画する。岡本正美とは同世代であるためか、作風、曲想はまったく違っても、つまり立場としては、純音楽的であること、その領域での創作である点ではむしろ正美に近いと言える。
しかしながら、日本音楽舞踏会議編『音楽の世界』(一九八六年四月号)の「女の目から見た音楽界」と題された本人による以下の記述は、音楽家の社会および周辺への立ち方という点で藤家渓子と通じる部分も多く、正美の耳に痛いかもしれない。

「社会から望まれたことのない音楽家は所詮だめであると言えるのではないでしょうか」
「(自分は)永年大学の教師生活をしていますし、又レコード会社・出版社・放送界などで、いろいろ仕事はしているし、人間関係のトラブルなどで、がまんさせられることも多いし、どれだけ、自分をおさえなければ、他人と共に同じ船に乗って航海することがむずかしいかを、それこそ、いやというほど体験して来たつもり……」
「一般社会、つまり自分をまったく知らない人たちから、お呼びがかかり、その一般社会から報酬を受けたことのある人は、その道のけわしさと有難さを知るようになるのだと思います……中略……女性でも男性でも、殆ど変りなく、共通してそういうことは言えると思います」
「世の中から望まれた女性は、それだけでも光っているし、相手を立て、尊敬し、自分から一歩譲ることを知っていますから、一見わがままそうに見えても、いざとなれば必ず譲歩しますし……」
「本当に才能のある、豊かな人間は、世間が放っておく筈がない、と思うのは楽観のしすぎでしょうか」

岡本正美は、「女性」というくくりから見れば、依然として存在するジェンダーと戦後民主主義のフェミニズムとの中間点で……「作曲」というくくりから見れば、クラシック音楽とポピュラー音楽との対立軸という中で……そうしたことのちょうど狭間の、やや現在寄りに、位置していたと言えるのではないだろうか。

では、より個人的領域で、ジェンダーとからめての正美はどうであったのか。
思うに、ジェンダーの問題とは、単に職業、社会的領域のそれとしてだけではなく、女の日常生活における次元、夫婦にあってはまさに夫と妻の問題として燻(くす)ぶることを、直純と正美との関係性で気づくのである。つまり正美にとってのジェンダーは、(本人がそうと意識していなくとも)作曲家としてのそれだけでなく、夫たる直純と相対する領域でこそ重い比重となっていたのではないかということだ。
すでに記した正美の言葉を思い出していただきたい。
「私は彼を幸せにしてあげたいと思って結婚したので、あくまでもそうやっている……一般に女性はこの年くらいになると子供に身を入れたり、夫を呪ったりして生きていますが、私はなおかつこの人を愛し、女の愛の姿をつらぬきます」
事実正美は、そう述べる以上に子供に対しては賢母であり慈母、夫に対しても賢妻であり滋妻であろうとした。つまり、彼女は彼女なりに目いっぱい「女性」たらんとしたことに偽りはない。しかし彼女は、夫たる直純のあまりにも「男のまんま」に圧倒され、「直純は仕事のために家庭を犠牲にするタイプ。私は家庭のために仕事を犠牲にするタイプ。だから、もっているんでしょう」という業(ごう)を負うことになる。畢竟(ひっきょう)、彼女はますます「女たらんと」する。
すでに例証したように、女性作曲家にとっての作曲行為とジェンダーを拭(ぬぐ)う闘いとは、コインの表裏であった。しかしながら、乗り越える者もいた。乗り越えられたのは、それを意識してか、無意識か、あるいは外への回路を得ることによってか、自らをニュートラルにすることができたからなのではないか。そうできたのは、創作だけでない日常生活領域で自らをニュートラル化する――そうしたなんらかの助走が果たせていたのではないかと思う。
比べて正美は、直純に相対して、建設的とはとても思えない膨大なエネルギーを費やし、直純もまた正美に相対して同様であった。こうした場合、つまり「男のまんま」の装置と化した男に対して、女は自らをニュートラルと化してしかも賢妻であることを演じるのだが、もとより彼女にはそうしたしたたかさの持ち合わせてはなかった。彼女もまた「女のまんま」であった。さらに言うならば生来の「岡本正美のまんま」であったのだ。つまり、直純に倍する天衣無縫の大直角、大直球であったのだ。
岡本正美の業とはそうしたことであり、畢竟、作曲への専念を奪うことにもなった。ジェンダーとして要約すれば、日常生活と作曲活動の両面で自らジェンダーを背負ってしまった、演じてしまったと言える。

が、岡本正美はまぎれもない作曲家であり、次に示すような作品群を世に送り出している。
残るは問題は、その作品を性別を超えて、あるいはそれを含み置きして、我々がどう聴き、どう感じるかだ。つまりジェンダーとは、音楽を享受する側の問題でもある――ということになる。

 

Ⅶ――「作曲の家」と代表作品

岡本正美のその後に戻ろう。彼女の作曲行為と作品そのものについてだ。

すでに幾度も繰り返したように、彼女の音楽は、夫直純の音楽とは質においても別方向であった。片や、純音楽領域での作曲。片や、あらゆる音楽ジャンルを受容しつつかつ一気呵成なまでのクラシック音楽の大衆化(そのためには、もちろん彼が修得したクラシック音楽楽法の駆使が含まれる)……。
前者を夢から実践に移すために必要なのは、自分の内奥に没入し切り、かつ自己発酵、自己発揚し切る時間と空間の確保であった。アキコ・カンダ風に言えば、「孤独に耐える力」にて――。
正美が、その時間と空間を、自ら、ようやく作り出したのが、三十七歳の時である。

▼ニューヨーク滞在と、作曲の家の建設

正美は一大決意をした。夫も子供たちも自分のこれまでの日常も、一切合財を一時投げうって、まったくの一人になるために!
選んだ選択肢が、ニューヨーク滞在である。
昭和四十五年、子供たちを母ハルと家政婦、家庭教師に任せて、単身アメリカに渡り、ホテルを宿に半年間ニューヨークで過ごした。この半年をどう過ごし、どこを歩き、なにを見聞したかは、つまびらかではない。言えることは、結婚後初の“命の洗濯”であったということだ。

帰国後ただちに行ったのが、自分の作曲空間の確保であった。自分だけの城、作曲のためのアトリエ「作曲の家」の新築である。幸い、直純の稼いだ金で買った土地が、目黒八雲の住宅街にあった。住まいの奥沢からそう遠くはない。
建設は家族の誰への相談もなく実行され、「作曲の家」は完成した。広大な庭に、横長の木造平屋(四十坪)建て。ここで正美は作曲に専念するようになる。後に総板張りの二階(五十坪)を増築し、作曲室をこちらに移し、一階はかねてより正美が自分の楽譜出版のために興していたラッキーチャイルド社のスペースとした。
増築された二階はバレエスタジオのように間仕切りがなく、その、フロアーの一方にベット、もう一方にグランドピアノ、四方の壁に巨大なキャンバスが八枚ばかり立てかけてある。他にはなにもない。生活臭がいっさいない。どのキャンバスにもなぐり書きの抽象的な油絵の具が走る。おそらくは作曲に行き詰った時、キャンヴァスに向かい油絵筆を手にしたのだろう。
このフロアーの指揮台の上の楽譜に向かって、正美はついにシンフォニーの作曲に没頭し始めた。正しく時をたどれば、交響曲第一番に着手したのは純ノ介が小学校上級の頃からであったようで、彼は次のように語る。
「八雲の家ができる前、家のベランダで一番の作曲を開始していました。シンフォニーの作曲がどういうものなのか、つぶさに見ることになったんです。何十段もある楽譜がドンドン音符で埋まり、頁が進むとセロテープで貼り足して、大きなジャバラのように連なってゆき――」
門前の小僧の特典を受けたありがた味を、彼はいまでも噛み締める。
ともあれ最後は作曲の家にて、昭和四十八年十二月二十一日、本人四十歳の直前に完成を見たのが、正美の代表作品の一つ、『交響曲第一番 ジーザス・クライスト』である。
以後、この作曲のアトリエから管弦楽曲、管弦組曲、協奏曲、室内楽曲、独奏曲、合唱曲などを次々と生み出した。交響曲は、未完の第七番まで作品を重ねた。

▼交響曲第一番の明暗

正美が作曲家を目指してまず頭に思い描いたのが、「シンフォニー作曲家としての岡本正美」であったろう。夢の第一歩はついに果たされた。本人は満足したであろうし、それまで喧嘩の絶えなかった夫直純も喜び、喝采した。

第一番は『ジーザス・クライスト』という曲名のとおり、キリスト教の聖書に基づく。両親がクリスチャン(プロテスタント)で、特に母ハルが熱心であったので、正美は幼い頃から聖書に親しんでいた。彼女が洗礼を受けたのは三十三歳、三歳になった次男祐ノ介に幼児洗礼をさずけた日に一緒に。一般に、クリスチャンの家庭に育った身としては遅い受洗である。
受洗は、夫直純が売れ始めた頃と重なっている。自分の電極のような気質を静めるためか、夫との間で蓄積されたストレスを軽減するためか、それら諸々を含めて、洗礼を受けて後、彼女は聖書と信仰にのめり込んでいった。交響曲の作曲はそうした自分の心の証であり、一番から七番までの大半のタイトルが、聖書にちなんでいる。
他の交響曲は違って、第一番は新約聖書の「主の祈り」を主題とし(他は旧約聖書)、人類の愛の追求――特に人間の心の方向性、弱さ、深さ、弾力性、従順……などを描こうとしたと、本人は記している。
楽器は、トムトムなどを含む多彩なパーカッションに、ハープ、さらに人声(女声約二十人)までをも加えた、テーマにふさわしい大編成である。
曲は、人声の静かにうちふるえるフィス(f♯)のユニゾンを基響に、秘めやかに、予感的に始まる。フィスの人声は曲の前半の基音として響くが、進むにつれて、時に複合和音のクラスター(塊)となり、曲全体(他の楽器群)がそうであるように、人声のオスティナート(同じリズムやメロディーの反復)が、曲の要所の盛り上がり、断絶と継承に大きな効果を果たす。
特徴は、圧倒的なリズムの刻みである。弦楽群でさえも、メロディーを奏でるよりもむしろリズムを刻み続ける。
全楽器、あるいは楽器群によるそのリズムが、また凄い。十五拍子、十九拍子、二十七拍子、三十一拍子……などの超変拍子が頻出するが、いっさい淀みはなく、滔々(とうとう)と、時に怒涛(どとう)のごとくに、曲は押しすすむ。
クラリネットとバスーンによるカデンツァが、みごとだ。
時に垣間見せるスラーによる弦の抑揚が、人間の心の断片を開示してみせる。
曲全体は五部に分かれているが、切れることなく、しかし、しばし静止し、また呼吸を開始する。天と地と、人と人との相克が、響き全体の中に飲み込まれていく心地よさを感じさせてくれる。生成と流転とのくり返しでもある。そうした意味で、(正美がそう意識していたのかどうか訊ねたいところだが)東洋的な曲想でもある。
終曲が圧巻だ。八分の四拍子で下降する金管のオスティナートと、逆に上昇する弦のオスティナートとが織物の縦糸と横糸のように折り重なり、その絶頂へと向かう。

約三十五分の大作。おそらく作曲者岡本正美は、この曲を通じて、イエス・キリストによる恩寵を垣間見ようとしたのかもしれない。
完成までに、二年半を要したという。
本人曰く――「形而上的な示唆に促された内的な衝動」による作品であると。
あえて付記すれば、この曲、後に記す『スプリング・ハズ・カム』も同様であるが、「女性」作曲家によるそれと、誰が思うだろうか? どちらの曲も力感にあふれ、津波のごとき迫りに満ちる。

書き終えても、曲は終わらない。演奏されるために曲はある!
初演は実現するかに見えた。当時東京の民間オーケストラの最有力、日本フィルハーモニー交響楽団がこの曲の初演のために努力してくれていたのだが……運悪く、日フィルは「日フィル争議」と分裂騒ぎで大わらわの時期だった。

日フィルは、直純の恩師である渡邉暁雄を創設者、文化放送をスポンサーに、昭和三十一年に設立された。やがて財団法人(フジテレビと文化放送の放送料によって運営)となり、労働組合が結成された。その労働組合が賃上げを要求し、日本のオーケストラ史上初の全面ストライキに突入した。ストライキを受けたフジテレビと文化放送は、オーケストラの解散と楽団員全員の解雇を通告した。これにより、楽団員の三分の二が労働組合に踏みとどまり、日フィルは自主運営によって今日まで続く。
その一方で、楽団自体の分裂を生んだ。当時日フィルの首席指揮者であった小澤征爾と山本直純とが指揮者団を形成し、三分の一の楽団員と結成したのが、新日本フィルハーモニー交響楽団である。
以上は、正美が交響曲第一番を完成させる前年までの出来事であった。
こうした最中にあって、日本フィルによる第一番の初演は立ち消えになってしまった。
すでに新日本フィルを率いていた小澤征爾が、正美に申し出た。
「新日本フィルで初演しましょうか――」
無論、振るのは征爾である。
「…………」
正美は頷かなかった。ふつうに考えれば、夫直純も指揮者団の幹事である新日本フィル、しかも征爾の申し出であるのだから頷くはずであったが、そうしなかったのは、これまで初演に向けて努力してくれた日フィルへの義理であった。猛女であった一方で、筋を通す(換言すれば頑なな)、軸のブレない正美を知る。しかしながら、それでは何事も動かない。
そこで動いたのが、直純であった。彼は発足間もない新日本フィルを食べさせるために腐心していたが、一方で日フィルに後ろ髪を引かれていた。日フィルを愛しており、その日フィルも食えないことが辛かったのだ。しかし、自分の身は新日フィル。表立って応援できない彼は、裏で動いた。自分が稼いだ金を日フィルに注いでの第一番の録音である。
こうして交響曲第一番は、作曲し終えた翌年の昭和四十九年八月九日、舞台初演ではなく録音初演で音となった。レコーディングの演奏は、正美の意志どおりに日本フィルハーモニー交響楽団。指揮は山岡重信である。

▼その後の交響曲作品

二番以降の完成年月日と初演(年月日判明を含む)を以下に示す――

○『交響曲第二番 はじめの園』――昭和五十年三月十一日
初演=四月三十日。日本都市センターホール。主催:日本作曲家協会。文化庁助成公演「日本の音楽を世界の人々に」第六回シンフォニー・コンサートにて。東京交響楽団。指揮:山本直純。
○『交響曲第三番 ノアの箱舟』――昭和五十三年七月十五日
初演=昭和五十四年八月。東京文化会館大ホール。新日本フィルハーモニー交響楽団。指揮:山本直純。
○『交響曲第四番 アブラハムの聖召』――昭和五十六年
試演=東京芸術大学学内の第六ホール
○『交響曲第五番 エキソドス(出エジプト記)』――作曲年月日不明
○『交響曲第六番 ゴールデンスパーク』――作曲年月日不明
○『交響曲,第七番』――平成三年三月十八日

『交響曲第二番 はじめの園』については、初演時のプログラムで、指揮者をした山本直純が次のように解説している。

――人間はどうして、誰によってつくられたのか、何のために生きるのであろうか……。この素朴な疑問に応えている。旧約聖書の「創世記」を題材に書かれたのがこの作品だ。
「はじめの園」とは「エデンの園」であり、神が万物を送り給い、そして人間を造られ、アダムとイヴが、「禁断の木の実」を食べるまでが描かれている。曲は、交響詩的発想と内容をもっているが、構成的には、三楽章からなる、交響曲風シンフォネッタとでも言うべきであろうか。
第一楽章)
神は天と地を造り給い、七日にわたりそれをととのえられる――いわば「天地創造」の部分。
(第二楽章)
荒涼たる地の果ての泥で人間を作り給い、息をふきこまれ、これを生きた物とされる。この短い楽章の終わりに近い部分で、大太鼓によって奏されるリズムは、人間がはじめて動くさまをカルカチュアナイズしている。
(第三楽章)
はじめて生きた人間が、エデンの園で生活し、神との対話がある。猫や犬や、全ての動物たちについで、女がつくられる。
第一の部分はエデンの園の描写。
第二の部分は神との対話。
第三の部分は、男を中心に、動物たち、そして女が幸せに暮らすさまを描いている。が、われわれの先祖、アダムとイヴは、やがて神の教えにそむき、サタン(蛇)の誘惑に負けて、禁断の木の実(リンゴ)を口にしてしまうのだ――

『交響曲第三番 ノアの箱舟』は昭和五十一年に書き始め、一番と同じく二年半を費やして書きあげた。 ただしこの間に、『チェロ協奏曲』と、アンコール・ピースとして数多く演奏されるようになった「スプリング・ハズ・カム(春がきた)」を含む交響組曲『日本のリズム』三部作なども書きあげている。「作曲の家」という拠点をつくり、正美の作曲作業に一番脂が乗った時期の作である。
曲については、彼女自身が初演の際に解説している。

――……前略……この作品の第1楽章は聖書の次の文句から始まります。――さて、主なる神が造られた野の生き物の内で、へびがもっとも狡猾であった――女は蛇の甘言にのり、禁断の実を食べ、男にもこれを与え、人類が初めて罪を犯す。
神の怒りにふれた蛇は、全ての生き物の中で最ものろわれた存在となり、地を這う宿命を負わされ、女は産みの苦しみを与えられる。
私はこのへびを曲の中でどう扱うか大変苦心しましたが、この重要な役廻りは、どうも尺八であるように思えてなりませんでした……中略……
というわけで、このSymphonyの中で、尺八は大変重要な役割を果たしています。
第二楽章(内なる生活)第3楽章(系譜)第四楽章(ノアの箱舟)は、――禁断の木の実によって恥を知り、いちじくの葉をつけた人とその妻はエデンの園を追放される。
神の造った人類の系譜。神の怒りによる有名な大洪水。神の思し召しによりノアは「箱舟」を造り、神に選ばれた生き物と家族を「箱舟」にのせる――等のエピソードがSYMPHONIZE(交響化)されています。
終楽章(にじの契約)は、洪水が終わり、神は箱舟から出て来たノアと契約する。――もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は再び起こらないであろう――この契約により雲のなかに虹が生まれる。等を経て、950歳になったノアの死でこの交響曲の幕は閉じられます。
私はこの2年半の歳月、いつも神の造られた世界の素晴らしさ、不思議さに感動し、祈りつつ汗と涙を流して作曲しました。
一介のキリスト者にすぎない小さな私が、「偉大なる創造」にインスピレーションを得、創作の糧となし、拙いながらも完成に導かれたことは、本日こうして演奏される喜び、大勢の方々に聴いて頂ける幸いと共に、神の加護とみちびきであることをしんじずにはいられません――(原文のまま)

この曲を聴いた直純の妹、オルガンニストの湯浅照子さんは、
「ふだんの正美さんの話し方とそっくり。飛躍がちょっとありながら、いかめしくなくて」
という感想を述べている。

最後のシンフォニーとなった第七番については、悲運であったことをつけ加えなければならない。わずか五分の長さで正美が筆を置いた作品である。筆を置いたのが彼女の最愛の母ハルが昇天した平成三年であるから、そのショックによる中断なのか、「それでもシンフォニー!」といういかにも正美らしい完結であるのか、いまとなっては定かでない。どうも後者であるらしいのは、平成十一年に初演としてプロデュースが進行したからだ。会場は日比谷公会堂。「ハルさんを偲ぶ演奏会」。やはり短い、ということにより第一番との抱き合わせでプログラムが組まれたが、進行中に公演資金が詐欺まがいに遭い、中止という結末となった。
不幸あれば幸もある。この年、天皇と皇后陛下の『両陛下成婚四十周年祝賀演奏会』が皇居内で催された。当日、プログラムにない上演が幕前に行われた。『ねむの木の子守歌』である。しかも二回繰り返されたという。七番初演の中止を悲しんだ美智子皇后の配慮であったという。

なお、前記の交響組曲『日本のリズム』については、三部作であるこの曲のうちの『スプリング・ハズ・カム』は、昭和五十一年年十月二十日、アメリカのサンタバーバラの「グラナダシアター」にて、秋山和慶の指揮により、東京交響楽団のアメリカ定期演奏会のアンコールとして初演された。
この時の模様は、純ノ介にとってはいまもなお鮮明である。芸大受験に失敗し、一浪中の身であったので、母と共に初演に立ち会うことができた。
「曲が終わると観客は総立ち。もの凄いスタンディングオベーションで、母は何度も何度も舞台に呼び出されました」
この時、東響のヴァイオリン奏者だった金山茂人(現・日本演奏家連盟理事)も、いまもなおこの時の感動を語り続けている一人である。

▼その他の主要作品

交響曲以外の主要作品は(年代順)、以下のとおり。

○独奏曲『ファゴットのためのエクササイズ』――昭和三十一年
○室内楽曲『サキソフォンと打楽器のための音楽』――昭和三十二年
○劇伴(TVドキュメント・シリーズ)『中国の女』――昭和三十三年
○室内楽曲『女声、Saxその他の楽器の為のBrown Movement』――昭和四十二年/初演=前記
○室内楽曲『二台のハープのためのポエム“月影の湖畔”』――昭和四十五年
○ピアノ独奏曲『縞(Stripe)』――昭和五十一年
○『チェロ協奏曲』――昭和五十一年年
○交響組曲『日本のリズム』三部作「火の用心」「春一番(スプリング・ハズ・カム)」他――昭和五十一年/初演=(前記)
○室内楽曲『クラリネット五重奏曲 Cl.,S.Q.),虫の声,』――昭和五十五年頃/初演=銀婚式コンサートにて
○室内楽曲『WISTARIAZONE チェロとピアノの為の』――平成七年
○チェロ独奏曲「無伴奏チェロの為の「L,M,Heaven」――平成八年五月三十日
○室内楽曲『チェロとピアノの為のThe Fushigi』――平成十二年十二月三日月/集中治療室より退院(後述)して最初の作品
○室内楽曲『チェロとピアノの為の音詩 第二番 “空想”』――平成十二年
○ピアノ独奏曲『ピアノの為の音詩 Ⅰ「紋様」 Ⅱ「さくら』――平成十三年/初演=平成十四年一月/ピアノ小山京子/ロンドンのロイヤルフェスティバルホールにて
○チェロ独奏曲『IKARI無伴奏チェロの為の』――作曲年不明

〈出版作品として――〉
○女声三部合唱『ねむの木の子守歌』――昭和四十一年/作詞:皇太子美智子妃殿下/出版:昭和四十二年/ラッキーチャイルド社
○子供のための歌集『Flower at Random 1』――出版:平成四年/ラッキーチャイルド社
○子供のための歌集『Flower at Random 2』――出版:平成五年/ラッキーチャイルド社
○歌集『幼児の生活の歌』――出版:昭和五十四年出版/音楽之友社(昭和四十三年出版の講談社の「しつけ音楽」より再編)
○,短歌による女声三部合唱曲及び独唱『軽井沢の四季』その1、その2――その1昭和五十四年/その2昭和五十八年/作詞(短歌):後藤田恵以子/ラッキーチャイルド社/初演=その1、その2共に日本合唱協会、指揮:岡本正美

〈「せたがや歌の広場(*)」での発表作品として――〉
○歌曲『声のわるいキツネ』――作曲年不明/作詞:今幡とみえ
○歌曲『SottoVoce』――作曲年不明/作詞:小作久美子

*「せたがや歌の広場」(世田谷区主催)は、作曲家の芥川也寸志、作詞家の江間章子氏の呼びかけで平成元年に発足した。世田谷区在住の作曲家、詩人で構成され、毎年一回、「詩と作曲の会」の会員の新作発表会としてコンサートが催され、今日にいたる。作曲家の幹事としては、林光、高田三郎、池辺晋一郎……など。岡本正美、山本直純も幹事を務め、それぞれ作品を発表していた。

▼指揮者の感想と海外での評価

前章で述べたことだが、女性作曲家はもとより、男性作曲家においても、自作を初演、さらに再演される機会は非常に限られている。
そうした中で、様々な編成、編曲にて、いまもなお演奏され続けている岡本正美の不朽の作品を挙げるとすると、『ねむの木の子守歌』(前記)であろう。
次いでくり返し演奏されているのが、女声三部合唱曲『軽井沢の四季』である。正美自身はかねてより、人生における自然の美しさ、その大切さを著わした徳富蘆花の『自然と人生』を愛読していたが、強烈な自然描写によって人生を歌いあげる後藤田恵以子の短歌に出会い、この曲が生まれた。
国内はもとより海外でも盛んに再演されたのが、東京交響楽団のアメリカ定期演奏会で初演され(指揮、秋山和慶)、絶賛を浴びた『スプリング・ハズ・カム』だ。その後、海外では、山本直純指揮によるボストン・ポップスでの演奏、内藤彰指揮によるメキシコ州立のオケおよびロシア各地のオケを率いての演奏、国内では、朝比奈隆指揮による大阪フィル、山本直純指揮および山岡重信指揮による宮城フィル、村方千之指揮による東フィル、福田一雄指揮によるTV「題名のない音楽会」……などで演奏されている。
では、指揮者にとって岡本正美の曲はいかがなものであるのか。海外で『スプリング・ハズ・カム』を数多く、国内で『軽井沢の四季』を演目にとりあげた内藤彰さん(東京ニューシティ管弦楽団および東京合唱協会の音楽監督および常任指揮者)に、そのあたりを訊いてみた。

まずは、『スプリング・ハズ・カム』――
「海外でのアンコール・ピースとしてよくもっていくのが、外山雄三さん、伊福部昭さんなどの曲です。日本的な曲想、日本調が、海外の人に受けるんですね。岡本正美さんのこの曲も同様です。彼らにとっては珍しい日本の打楽器が効果的で、半分アドリブでやれてしまう掛け声入りでもあり、たいへんにウケます。聴衆にはもちろん、演奏してもらう現地のオケの楽団員にもウケます。楽器の編成を含めて自由度があるので、編成を小さくしても演奏できます。
ただ、リズムや不協和音に演奏不可能なところがあって、つまりもっとシンプルにした方がよく、正美さん本人の許可を得て、多少手直しして演奏しています」
自由すぎる――ということは、“自由に”書かせてくれた芸大作曲科の長谷川良夫教授の指導の賜物なのか、本人の天性なのか? それは、合唱曲にも言えているようだ。
「『軽井沢の四季』で言えることは、ソプラノの音域が合唱曲ではありえないもの凄い高さであることです。モーツァルトの『魔笛』の夜の女王が歌う上のファですから。ソプラノの、それもコロラトゥーラしか出せない音。
どんどん調は変わりますが、全体としては調性感があり、途中の和音もちゃんとしています。音域さえ変えれば、アマチュアでも歌える繊細で美しい、いい曲です」
すでに記したように、内藤さんは作品に「男女の差なし」の強固な論者であるが、女性作品は、岡本正美作品以外まだ一曲も取り上げていないとのこと。

海外での正美作品の評価については、純ノ介さんが語る。
「父と母が二人でパリに旅した時があり、その時、ナディア・ブーランジェに会ったんです」
ナディア・ブーランジェ(一八八七年~一九七九年)とは、フランスを代表する女性作曲家、ピアニスト、指揮者、かつ教育者。当時のフランス音楽界を代表する大家である。この時正美は自作の交響曲第一番のスコアを見せた。
「見てもらうなり、絶賛されたんです。『他にもシンフォニーがおありでしょう? 今度、いつ見せていただけますか』……」
熱心にそう言われたと、純ノ介さんは母から聞かされている。
残念ながら、正美がブーランジェと会うことができたのは、ブーランジェ最晩年の昭和五十一、二年ごろであり、再会は果たされなかった。
また、こうも訊かれた。
「この曲の作曲に何年かかりました?」
「二年半ほど……」
と答えると、
「けっして長くはありませんよ、これだけの曲ならば――」
と言われたそうだ。
ブーランジェをさらに喜ばせたのは、次のやり取りだったそうだ。
「ピアノを使って作曲しますか?」
「いいえ――」
と答えると、ブーランジェは深く、深く、頷いたそうだ。
純ノ介さんが補足する。
「オヤジは曲を作るとなるとすぐにピアノを弾き鳴らしますが、母はそうしないんですね。ピアノに頼らない。音の処女性というか、そういうあたりを重視し、ブーランジェも同じく。すっかり意気投合したと聞いています」
そう言えば、ベートーヴェンも同様であったらしい。もっとも彼は、交響曲第一番を作曲する頃には、聴覚をほぼ完全に失っている。ともあれ彼は、「作曲の際にピアノに頼ってはいけない」と、弟子たちに忠告していたという。彼こそ、言うまでもなく純音楽の大巨匠である。

純ノ介は平成七年から八年の間に、二度ドイツに留学している。二度目の時、ミュンヘンの国立図書館に正美の楽譜をもっていったら、購入してくれたとのこと。
「まだ出版されていない、楽譜のみのいくつかでしたが……」
国際的にはまったく無名であっても、作品そのものを見て判断を下す海外。名よりも実をとる! 美術にしても然りだが、特に現代音楽は日本よりも欧米で……という実態。“新たな作品”に対する日本人の耳は極めて保守的――と言わざるを得ないのではないのか。

▼四十八歳にして大学院へ!

岡本正美の作曲家人生にとって特筆すべきことがあるとすれば、家庭をもち、中年を過ぎつつ、なおかつ東京芸術大学の大学院の作曲科を受験し、合格し、二年間通学し、卒業したことだろう。
合格したのは、なんと四十八歳の年であった。
この「やる気」は、この時期のアキコ・カンダとの交流が刺激となったようだが(前記)、もう一つ、長男純ノ介の大学院受験も大いに刺激したようだ。
昭和五十六年、芸大を卒業した純ノ介は、同大の大学院作曲科に合格した。まったく同じ年に、母正美も同大の大学院作曲科に合格した。「大学よりも超難関の大学院へ、母子が同時に合格!」ということで、当時話題になった。
純ノ介は松村貞三の門下となった。
正美は黛敏郎の門下となった。
母と子の二人しての上野への通学が始まったが、行動は別であった。丸二年間、正美は大学へ専属のタクシーで往復した。とても世間の一般人には叶わない散財と贅沢だ。夫をもち、子をもっての四十代後半にして、彼女は依然として「銀座のレストラン・オリンピック」の令嬢であったと言える。
それにも驚くが、もっと驚くべきは、その年齢にしての作曲の勉学への執念であろう。正美は、もはや「ナオズミはナオズミ!」として、わが道を歩もうとしていたと言える。

 

Ⅷ――童女となりて

山本家にかつてない衝撃が走った!
平成十(一九九八)年の七月、正美、六十六歳の時である。
「オヤジ、もうオフクロはダメかもしれない!」
正美が家で突如倒れ、意識不明となり、心臓が一時停止したのだ。居合わせた直純と純ノ介が人口呼吸をほどこしつつ、救急車を呼んだ。
かつぎ込まれた昭和大学病院で正美は息を戻したが、以後丸々三ヵ月間、意識不明が続いた。腎臓機能が停止し、肺炎まで引き起こした。
いままで近所の病院に入院したこともあった正美だが、病室から裸足で逃げ出し、自宅に帰ってしまうなどの勝手気ままで、病院をあきれさせた。だが、この時ばかりはそうはいかない。
直純および山本家と親しくつき合っていた造園家の竹内正則さんが、語る。
「直純さんの献身ぶりはたいへんのものでしたね。毎日病室に通って、正美さんの脚を揉む、『ねむの木の子守歌』のオルゴールをもってきて、耳元で聴かす……など」

ド派手な喧嘩に明け暮れた二人だが、直純の目に正美は眠れる童女としてそこにいた。世の中がまるでわかっていない正美が、様々な管につながれて、目を閉じ続け、横たわっていた。
彼は想い出したに違いない。結婚以来、どこに出かけるにせよ、電車などに乗ったことがない正美。脚はつねにマイカーか、タクシーだった。こんなことじゃあイカン! 彼はある日彼女を新幹線に乗せたのだった。不思議なボタンが車内にある。「これ、ナーニ?」。「乗客が押す緊急停車のボタンだよ」……もしかしたら直純は、新婚前のデートを重ねていた日々を思い出していたかもしれない。数十年ぶりに、自分は『ローマの休日』のグリゴリー・ペックであると思ったかもしれない。そして事実そのようになってしまった。正美が、「ならば!――」と、そのボタンを押してしまったのだ。彼女にしてみれば、「押せばどうなるか?」にすぎなかったからだ。新幹線は丸ごと急停車してしまった。一乗客の人さし指によって――。
重篤の妻を目の前にして、夫の直純の心の底の現在に、過去が現在そのものとなって、雪崩のごとくよみがえったに違いない。それはもしかして、芸大一年の時の日本アルプスの雪渓で滑走する正美の身体と、それを受け止めようとする自分自身であったかもしれない。

正美は回復した。
回復して、直純に革命が起こった。入院中にカトリックの教会に通い始めた直純は、正美の退院の直前、彼女とは宗派は違うが、父忠直と同じカトリックの洗礼を受け、彼女と同じキリスト教信者となったからである。
ふたたび、竹内さん。
「回復後のリハビリでも、直純さんは正美さんにほんとによく尽くしていました。脚を鍛えるのが第一と言っては、あちこちへ連れ出して、歩くんだ、歩くんだ、と。わざわざキツイ石段の下に連れていって、サァー、登るんだ、とか……。
直純さんは元々博愛の人でしたが、業界で仕事をしていると、イヤな奴、直純さんを利用する取り巻きなどもいたりして、そのあたりにも正美さんはイラだっていたんですが、教会にいくようになって直純さんは変わりました。内省的なこともキチンと受け入れることができるようになり。正美さんは退院後すっかり穏やかになり、二人はとても仲良しになりました」

▼肉親愛と信仰

結婚後の正美の人生で一貫していたのは、子供たちと両親への愛情であった。
子供たちへのそれは、すでに記した『しつけ歌(音楽)』に結実している。彼女にしか書き得なかった音楽であり、子供たちへの人並ならぬ愛情、哀惜なくして、このような作品は生まれるはずもなかった。その後は夫直純との間で人も寄せつけぬ波風を立て続けたが、幼児期の子供たちとの間に交わされた情愛は、その後の母子の土壌となった。夫に対しては悪妻、しかしながら子供たちに対しては賢母、慈母であり続けた。
「この歌には、正美さんのいいところが、そっくりそのまま出ています」
と話すのは、竹内さんだ。
「そこから察するのは、美さんはきっとファミリー・コンサートをやりたかったのでは――」
ファミリー・コンサートというカタチはとらなかったが、二人が三十代の頃に夢見ていたジョイントコンサートは、昭和五十八年に実現させた。上野文化会館小ホールで開催した「銀婚式コンサート」。この時直純は室内楽オクテット『仲間たちへ』を書き下ろした。 純ノ介さんによれば、「オヤジが久々に自分の意志で書き上げた曲」だったとのこと。
ともあれ、長男も次男も両親の道は引き継いだ。片や作曲家、片やチェリスト。どちらも結婚して家庭をもち、別々に暮らしている。ワザをたずさえての独立独歩。それが可能なのが、一般の家業と一線を画する音楽一家の良いところであろう。

話を正美の家族愛に戻せば、際立っていたのが父祐信への愛と執着であった。
父祐信は、正美三十七の時に他界した(昭和四十七年)。それがいかにショックであったかは、死後にいや増した彼女特有の父への独占欲の数々が示す。

まずは、父の形見への執着だ。
「私は父の背広を母から分けてもらったのですが、なんと正美がそれをとり返しにきて、家の元あったところに、元あったように吊るしました」
と、当時をふり返るのは、すぐ上の姉の堀輝美さんだ。
次男の祐ノ介さんによれば、
「祖母がおじいちゃんの遺品を教会のバザーに出したことを知って、母は買った人を探し出し、全部買い戻してきたんです」
母ハルに対しても同様……ハルの死は、平成三年の三月、正美五十八歳の時だったが、母屋のある箇所の電燈が切れていても、ずっとそのままにしていたという。母の面影を残しておきたかったからだ。

祐信が死んだ後に、正美が、
「空に、おじいちゃんと神様がいるのを見た!」
「おじいちゃんが私の中に入ってきた! 神様になった!」
と言うのを、祐ノ介さんは耳にしている。
長男の純ノ介さんは、
「神の声が私に降りてきた!――」
と叫ぶ母を、何度か目にしている。「母の語録の一つに、サタンよ、去れ!――というのもあります(笑)」
この頃からであろうか、正美は〈教会〉へのめり込んでいくようになる。
通ったのはすぐ近くのプロテスタント教会であるが、彼女のこと、牧師との対立が頻繁となり、一時、自宅を教会に見立て、出入りする銀行マンや証券マンを信者に仕立てあげ、勝手に洗礼を授けたことがあったという。
「母にしてみれば、もはや自分は直接神とつながっている! 二人で祈ればもうそこは教会!――という解釈だったんでしょうね」
と、祐ノ介さん。彼女特有のヒートアップは、当初は夫直純に対してであり、次いで姉たちや肉親以外の周辺に向けてであったが、最後は信仰にかかわるあたりで渦となった。しかし……天衣無縫と言えば言えるそれも、一時心臓停止による意識不明まで。よみがえって後の彼女は、誰からも「童女のよう――」と形容されるほどに変容した。信仰もまた一つの〈執着〉であるが、信仰が執着や意図の圏内にあるうちは、信仰たり得ないということであろうか。

正美が重篤からの回復を得て後のある日、直純は彼女に「宗教音楽をやってはどうか」と提案したが……それを果たすには、直純はもとより、彼女に残された時間はもはや少なかった――。

▼同心円と放物線

直純も六十代半ばを過ぎていた。長年の無理とガムシャラとがたたって、満身創痍の身体となっていた。高血圧、狭心症、糖尿病、体内各所のがん……。そうした身で著わした自叙伝『紅いタキシード』(一九九九年末/直純六十六歳)の中で、彼が芸大作曲科時代の恩師、池内友次郎について回想しているのが印象深い。
その門下であった芸大時代に、彼は先生に訊ねている。作曲家としての節目についてだ。先生は答えた。「直純君、人間は四十歳になると自分の実力がわかるんだ」と。
その言葉を噛み締めて、直純はつづる。

――後になってみるとボクの四〇歳の時は、自分の人生設計、作品に対する態度など全く考えずにヤミクモに突き進んでいた。ボクがわかるようになったのは、六〇歳を過ぎてからだから、二〇年も遅かった……――(原文のまま)
そう了解した直純であったが、時は遅すぎた。わずか三年後、彼は帰らぬ人となった。
人生のゼンマイは戻らない。悔いを残さずにこの世から旅立つ人間は稀有であろう。
彼自身の本音、本懐がどうであったにせよ、“クラシック音楽の大衆化”にこれほど尽くした者は他に例がない。表立って、という意味であるが。
ともあれ、彼の天分とエネルギーのほぼすべてがそこに注ぎ込まれた。しかし、天分が有り余るだけに……本人も、彼をよく知るまわりの者も、やはり悔やむのである。日本のモーツァルトであったはずが! と。
判断を下すのは、遺された者、彼を知る者たちの今後の時間、そして大衆を含めた今後の歴史であろう。

人生は、ある部類の人間にとっては坩堝であり、溶鉱炉だ。坩堝であり、溶鉱炉である限り、その中で各々の素子(生命体)がどうぶつかり合うかは、誰も予想できない。結果、熱烈な融合となるか、プラス同士の電極のように激しくはじけるか、プラスとマイナスの電極の差がありすぎてどちらかがブラックホールに遭遇したように飲み込まれるか……神のみぞ知ることが、日常の中で起こってしまう。

通常の人知を超えた、そこまではいかずともひどく過激な夫婦(片方が過激であれば、もう片方も必ずやそうなってしまう)というのは、市井の中でもいくらでも見られる。好例が、『男はつらいよ』の寅さんの世界、落語の八っさん・熊さんに象徴される下町の世界だ。フィクションだから笑いになるが、現実ならば周辺はたまったものではない。しかし、外にまでドタバタ、阿鼻叫喚が及ぶカップルは、下町であろうとハイソサエティー層であろうと、どの世界にもいくらでもいるのである。
問題は、夫婦なり愛人関係なりの双方あるいはどちらかが芸術家であったり、作家、科学者や学者であったりした場合だ。人並み以上の感性や知性を日々絞りに絞りつつ創造し続けるカップルであるだけに、白目を剥(む)くよりも、むしろ是とさえしてしまう。創造するということは感情の激しい起伏があってこそ……アドレナリンの内分泌も相当なものに違いない、ならば……そうつい思ってしまうからだ。
ちなみに画家にして彫刻家である岡本太郎は、自らに向けてか、あるいは外に向けてか(おそらくは双方に向けて)、それこそ白目を剥いて「芸術は爆発だ!」と叫び続けた。が、ここで目を向けるべきは、自己完結型の彼ではなく、むしろ彼の両親である歌人にして小説家のかの子と、天才画家として一世を風靡(ふうび)した一平であろう。かの子こそ、正美を陽の繚乱(りょうらん)者とすれば、陰の繚乱者の典型と言えるからであり、一平と直純とが重なる部分も少なからずであるからだ。

結婚当初の一平の放蕩(ほうとう)の明け暮れに精神まで患(わずら)ってしまったかの子は、ある時期からまさに人知を超えた女となる。夫がいて、子(太郎)がいる同じ屋根の下に、自分を愛する男を次々と、あるいは同時に住まわせたが、三人のうち二人は情夫であった。夫たる一平はその現実を全面的に受け入れ、かの子の大庇護者、大寛容者、大受容者としてのみの夫と化し、驚くべくも、かの子と交わした「夫婦間の禁欲」を彼女が死ぬるまで守り通したのである。
そうしたかの子の人物像(女性像)を知るにふさわしいのが、瀬戸内寂聴(晴美)が著わした『かの子撩乱』(講談社文庫)、『かの子撩乱 その後』(冬樹社)であり、前書の中で瀬戸内は、かの子をおよそ次のように描き出してしている(以下、原文のまま/傍点筆者)。

――「母子叙情」が出た時には平林さんも私も一様に嘆声を上げた。
「実に奇妙な小説だわ。化かされるにしても化かされ甲斐のある小説よ……」
「小説の形みたいなものを無視してゐる……というよりまるで知らないで、書きたいように書いてゐる魅力ね」
――四十も半ばを過ぎたかの子の、白痴的ともいえる幼稚な言動と、あの妖(よう)麗(れい)博識の豊かな作品とどこで結びつくのか。
――かの子は人並より早く生理の訪れがあり死の病床までそれがつづいていた。
――かの子の感情も行動も。物事の両端を揺れ動き、その振幅度の広さは常道を逸した感を世人に与えるらしかった。中庸を欠く平衡感覚の欠如、強烈なエゴの示顕欲、王者のような征服欲、魔神のような生命力、コンプレックスと紙一重の異常なナルシシズム……。
――奇矯と見られ、きざとさげすまれ、批判と誤解にあう度、かの子は世間との違和感に打ちのめされ、終世、苦しみつづけなければならなかった。
――幸いかの子は全世界を敵に廻しても恐れなくていいほどの、強力な理解者に恵まれていた。夫一平と、一子太郎である。
――一平にとっては、他人が、奇矯と観じ、為にするわざとらしさと見、人気取りの技巧と受け取るかの子の言動すべてが、かの子のたぐい稀な、純情から生まれる天衣無縫(てんいむほう)と映るのであった。童女がそのまま大人になったような稚(ち)純(じゅん)さが痛々しくどうにもいじらしくてならないのである

傍線のかの子と正美との共通点に、驚かされる。
「書きたいように書いてゐる」は、芸大時代での勉学以来の大半の作品がそうであるし、彼女の交響的作品はそのようなものとして書かれている。
「四十も半ばを過ぎたかの子の、白痴的ともいえる幼稚な言動」、「中庸を欠く平衡感覚の欠如、強烈なエゴの示顕欲、王者のような征服欲、魔神のような生命力、コンプレックスと紙一重の異常なナルシシズム」は、正美にもあてはまる。
また、「かの子は人並より早く生理の訪れがあり」は、純ノ介の「母は非常に生理が重く、その前後あたり……」という証言と重なる。
さらには、「一平にとっては……中略……かの子の言動すべてが、かの子のたぐい稀な、純情から生まれる天衣無縫(てんいむほう)と映るのであった。童女がそのまま大人になったような稚(ち)純(じゅん)さが痛々しくどうにもいじらしくてならないのである」とされた一平は、すでに記したとおりに、正美の重篤後の直純の正美への献身と改心(カトリックへの帰依)の経緯と重なる。

ここで追記しておかなければならないのは、奇怪とも受け止められるかの子と一平との関係が、何をもってしてかくも平衡であれたのか、ということだ。
答えの一つとしてあげられるのが――一平がかの子への夫としての欲情を封印し、かの子が妻としての操を放棄し、かつ欲情のままに生きることとなって後の、二人手をたずさえての宗教遍歴である。互いの前半生が逆転する聖者(一平)および罪人(かの子)として宗教に救いを求めた二人は、まずキリスト教の門を叩いたが、罪や裁きを述べるキリスト教からは救いは得られなかった。次いでかの子は親鸞の『歎異抄』に出会い、生きる方向を見出し、仏教研究に専念し、女流仏教研究者として知られるようになった。仏教に関するエッセイを発表し、講演も行うようになった。無論、彼女をしてそうせしめたのは、かつての放蕩の限りを悔いた一平のピュアーな、しかしながらあまりにも贖罪的すぎるその精神の持続による。それこそが俗人では及びも行いもできない、人知を超えた境地――そう述べるほか、言葉のもちようがない。

正美と直純の関係性は、クラシック音楽というイメージからすれば、確かに稀有な有様であったかもしれない。しかしながら、人知を超えるほどのものではなかったと断言できる。そこが、一平とかの子と大きく違うところだ。すでに記したように、(感嘆詞的に言えば)二人はあまりにも「人間丸出し」であったからだし、前記したように、互いに激しすぎる夫婦は世間にいくらでも散見できるからだ。しかも、直純の晩年における正美への献身は、一平のかの子に対する大庇護、大寛容、大受容とはまったく次元を異にする。かの子と一平が彼岸的領域に属するものであったとすれば、正美と直純とはあくまでも此岸の領域に属している。それよりも、直純が、その領域内でとは言え、実際にたどった以上の庇護と寛容と受容を正美に果たしていれば、正美の作曲への本懐はもう少しは本人の意となっていたかもしれない。しかしながらそうであれば、直純の役割と実績は大きく減じていただろうし、それよりもなによりも、人生に仮に……、もしも……は、あり得ない。あるのは、過ぎた時間の実際と実相のみなのである。

では、肝心の二人の相克と闘い――その時間とは、なんであったのだろう?
確かに言えることは、どちらもそれぞれなりに芸術家たらんとしたことだ。そこで、芸術家たらんとした二人になにがどう関連していたのかが、重要となる。直純の場合は、戦後の日本におけるマスコミの急激な発達と急発進、それによって生じたあらゆる物事の大衆化――それは、創造すること、芸術することの意味・意義・環境の激変をもたらした新たな支配勢力でもあったわけだが――そのただ中に好むと好まざるにかかわらず引きずり出され、結局のところ、晩年の直純の胸をいたく突き刺す結果となった。恩師への回想に重ねた「……ボクの四〇歳の時は、自分の人生設計、作品に対する態度など全く考えずにヤミクモに突き進んでいた。ボクがわかるようになったのは、六〇歳を過ぎてからだから、二〇年も遅かった……」とい彼の呟きは、けっして軽くはない。「どうあるべきだったのか?」に対するその「どう?」への解答は、一人直純、および正美・直純夫婦の問題であったばかりでなく、今後共、クラシック音楽にたずさわるすべての人に繰り越された重要課題でもあるのだ。
一方の“女性”芸術家としての正美は? Ⅵの章で考察を試みたジェンダーの問題が、そっくりそのまま彼女にもおっかぶさることとなった。畢竟(ひっきょう)芸術家とは? という視点と同時に、かの子と一平のような人知を超えた境地としてではなく、通常の(人間丸出しの)女と男との永遠の問題として、いま一度捉え直さねばならないだろう。そうでなければ、なにも見えてこない。
では、どう捉え直すのか?

男とは、どうも〈放物線〉体のようだ。殊に直純は生まれながらのそれであった。放物線は大気的で宇宙的だ。大気の中で自らを舞う。まさに大受けした、気球に乗って「大きいことはいいことだ」と叫んだコマーシャルどおりのイメージである。
一方、子を孕み産み育てる女は、本質的に〈同心円〉体である。同心円とは、他の円体の中心点をも同じくしてしまう円体のことだ。他とは、夫であり、子供であり、父母であるなどの肉親という円体であり、その女が芸術家であれば、残るもう一方の円体が芸術の領域である。つまり、芸術家たらんとする女は二つの円体を抱えてしまうことになる。しかも二つの円体を〈同心〉にせんとするこの〈同心円〉体は、放物線が宇宙的であるのに対して、極めて地上的、地面的である。そうであることが女にとっての安心であり、充足でもあるからだ。
問題は、芸術領域の円体だ。正美が本質的に〈同心円〉体でありしかも芸術家でもあらんとした以上、(度々見てきたように)放物線とは違った方式、意味合いで、〈外界〉との回路を確保しなければならなかった。しかしながら正美は、その点で直純にかなうはずもなく、また本人が最も不得手とするところであった。

直純とは幼馴染み、芸大入学後は二人の共通の友人となった前出の声楽家村上絢子さんは、
「二人をずっと見てきた私ですが、二人の結婚は、言ってみれば車を買ってから運転免許証をとったようなもの。そこに結婚後のたいへんさがあったんではないでしょうか」
と話す。

芸術家とは自らの世界の構築に専念し切る者の別名だ。しかし結婚生活は、あたかもそれとはまったくの別路として、そこに敷かれたレールでもあるのだ。ゆえに、家庭をもつ女性芸術家は、自分の芸術領域の他に、妻であり母親であることから生じる相克までをも同時にしょい込まなければならない。
肝心なのは、そのための女としてのほんとうの強さ(・・・・・・・・・・・・)である。しょい込んで初めて、女性芸術家としてのその者固有の境地がひらかれる。
「女はつらいよ」である。同時に「男もつらいよ」である。その女がどのような状態、状況にあろうとも、愛し続けるのであれば、「女のつらさ」を理解し、受容し続けなければならないからだ。

▼愛のかたち

六十八歳を過ぎて、直純の身体は高血圧、狭心症、糖尿病、がん……と、成人病のデパートとなっていた。
通院する慈恵医科大学病院の担当医に純ノ介と祐ノ介が呼ばれ、宣告された。
「すい臓がんです。しかしながら高血圧、糖尿病による動脈硬化があまりにも進んでいるので、カテーテル検査も手術も不可能。効果的な治療法ありません。半年もつかどうか……」
二人はそのことを母・正美に告げて、後は任せた。
「まさか! でしたね。母は医者の宣告をそっくりそのまま、まるで日常会話のようにオヤジに告げてしまった」
と、祐ノ介さんはその時のことを語る。正美の本心はどうであっても、あまりにアッケラカンであったことへの驚きである。
直純は治療なし、「死ぬまで現役」の道を選んだ。これまでも身一つで在野(・・)で生き抜いてきた彼らしい選択であった。家族が入院をすすめても「冷たいことを言うなよ、正美のそばにいたいんだ」と食事療法による自宅療養を選んだ。
妻を母として、彼も童心に戻ろうとしたのだ。
しかしながら、身体の衰えは急速だった。
年が明けた平成十四(二〇〇二)年一月、彼が指導に力を注いできた「ジュニア・フィルハーモニック・オーケストラ」を指揮する予定が組まれていた。同楽団は、十歳から二十二歳の青少年で構成され、オーケストラでの合奏を教材に、若い人たちの人間形成を支援している楽団である。そこでの指導は、長年クラシックの普及に尽くしてきた直純の晩年にふさわしい。
しかしながらゲネプロ(本番前練習)を終えた後に、直純の心臓の具合が突然悪化した。本番の時刻となっても動くことができず、楽屋で横になったまま。オケは指揮者なしでの演奏を余儀なくされた。この日の出演者の一人であった祐ノ介は、終了後に父を車に乗せて訊ねた。
「病院に行こうか?」
直純は首を横にふった。そして口にしたのは、
「それより、コンサートはどうだったんだ? お客さんは喜んだか?」
祐ノ介はいまでも鮮烈に覚えている――そのようなカラダで、まだ、お客さんの反応を気にしていた父のことを。
直純のカラダはややもち直したかに見えた。時が進んだ五月末、札幌交響楽団を指揮したのが、最後の舞台となった。

六月十八日夕刻。「パパ、いってくるわね」、「あゝ、オレは風呂につかる――」というやりとりがあって、正美はかつて裸足で逃げ出した近くの総合病院に向かった。もう日課であった。そこでは近隣の人たちに「健康食」を販売している。カラダにイイそれが、直純の夕食であった。が、もうその頃の直純は、その弁当さえ喉を通らず、トイレも千里の道というほどに弱っていた。せめて「湯につかって……」という気分であったのだろう。
帰宅して風呂を覗くと……直純は湯船に顔半分までつかったまま気を失っていた。体はキレイに洗った後で、石鹸もちゃんと石鹸箱に収まっていた。
正美は純ノ介と彼の妻を呼び、救急車を呼んだ。搬送先の病院に午後七時に到着した。それから二時間後、山本直純は担当医が予測したとおりの高血圧と動脈硬化による急性心不全で息を引き取った。享年六十九歳。

それから一年も経たない平成十五(二〇〇三)年四月九日の、やはり夕刻であった。桜が散り始めた春の時節であったが、この日は冬に逆戻りしたような冷え込みであった。
直純は、生前より「クララ」と名づけたゴールデン・レトリバーを飼っていた。言うまでもなく、二人が敬愛するクララ・シューマンにちなむ。
一方の主人を亡くした犬の散歩は、正美の日課となっていた。
住宅街のいつものコースを進んでいた。と、突然、正美は路上にうずくまった。季節はずれの寒さと、肥満とが災いした。元々心臓肥大でもあった。心筋梗塞に襲われたのだった。
正美は身元を証明するなにももっていなかった。しかもこの時刻、純ノ介は作曲界の大先輩・石井真木の通夜に出ていて、携帯電話の電源を切っていた。正美は身元不明の行き倒れに……。
女主人の急変に驚いたクララが吠えた。うずくまったのが、偶然にも純ノ介の後輩作曲家の門前であったのが幸いした。家人は倒れたのが正美であると気づいて、救急車を呼んだ。
運び込まれた慈恵医科大学病院で、正美は帰らぬ人となった。午後六時一八分。享年七十歳。
純ノ介および祐ノ介、親族が病院に駆けつけたのは深夜に近い数時間後だった。

岡本正美と山本直純という夫婦の歴史にとり、ほんとうの蜜月が訪れたのは、互いの死の一、二年前であったと思う。世間という風の中で、二人だけに許された甘えと受容こそが、夫婦というものの絆の糧(かて)である。
正美は童女となった。
直純はその童女を母とするかのような童心に戻っていた。
それこそが、気づかぬとも心の奥底に沸々と抱いていた、二人が求めていた境地だったのではないだろうか。

平成二十一年度上半期の芥川賞は、『終(つい)の住処(すみか)』を書いた磯崎憲一郎に決定された。
主人公は、生きるということと不可分のいかなる情熱とも無縁な、しかも自らは“なにもしない”かのような平凡極まるサラリーマンである。その意味では、互いに相克を極めた正美や直純とはまさに対極に属する主人公と言える。テーマは「時間」であり、夫婦関係を含む堰(せ)きとめられたような時間が層をなして物語は進む。
受賞インタビューの記事で、作者の磯崎は次のように語っている。

――どんなに性格や価値観が違っていて、理解しあえない夫婦でも、四十年、五十年一緒に生活したら、そっちの方が重いんですよね。
……中略……
世間で言われているほど、家族とか夫婦の関係は弱くないんじゃないかと思いました。日本では四組に一組が離婚するそうですが、それならなぜ、四組に三組は離婚しないんだろう。どんなに危機的な状況が続いても、どちらかが息を引き取るまで一緒に過ごしてしまったら、やっぱり立派な夫婦じゃないか。
……中略……
ある人がこの世を去った時、何が残ると思いますか。子孫は他者でしかない。家やお金などの物は残っても、その人を表現するわけではない。その人が生きた具体的な時間しか残らないような気がしてならないんです。
その人が生きた時間は、決してほかのものに置き換えることができない。それが、時間の不可逆性ということです。過去はどんどんなくなっていくのではなく、過去こそ消しがたい。それが、さっき言った「過去に守られている」という感覚です――(『文藝春秋』二〇〇九年九月特別号/原文のまま)

愛のかたちと有様そのものは、死と共に消える。しかしながら、残るもの、消しがたいものがあるということだ。
正美の場合は、直純と結婚した妻として、また母としての全時間であろう。
しかしながら、岡本正美は作曲家であった。残るもののもう一つは、数ではなく、質としての作品の数々である。
あらゆる作曲家がそうであるように、心血を注いで紡(つむ)ぎ出した作品よりも自らの命が先立つ。一方の作品は、いつ(・・)でも(・・)演奏(・・)される(・・・)こと(・・)が(・)可能(・・)という永遠の命を得る。
岡本正美が、直純の死後、それで「良し」としていたのだと、祈らずにはいられない。

――完――